神の定義
「その、どんな願いでも叶えることができるんですか?」
「ええ、どんな願いでも」
「どんな願いでも?」
「相応の代償さえ支払って貰えれば。どんな願いでも」
女帝のように脚を組むそのひとを仰ぎ見た。彼女がベッドに座り、僕が床に正座をしているという構図だ。それは別に構わない。僕は事態を把握するのに精一杯だった。
本の中から現れたのは目を疑うほど綺麗な女のひとだった。齢は僕よりは上だろう。濡羽色の髪は衣装と見間違えるばかりに長く、彼女の全身を覆っていた。その下の見慣れない制服も漆黒。胸元のタイと、覗く肌ばかりが花のように白かった。
どこか家鈴さんに似ている。
そんなことを思った。一方このひとの美貌は彼女のそれとは質が違うとも感じていた。
家鈴さんにもどこか浮世離れした雰囲気はある。けど接してみれば齢相応の子どもっぽさがあることも分かる。目の前の女性にはそれがない。触れただけで皮膚が裂かれるような……あるいは猛毒を持つ蜘蛛のような、そんな危うさだけがあった。
紅い瞳を妖しく光らせる彼女は、悪魔のすずりを名乗った。
代償を支払えば、どんな願いでも叶えてくれるという。
「たとえば時間を巻き戻してくださいと願えば、それは叶うんですか?」
「叶うわ。五年でも。十年でも。何年でも」
「不老不死を願えば、それは叶うんですか?」
「それが貴方の本当の願いであれば」
「……こんなことを願ったりはしませんけど、人類を滅ぼして欲しいとお願いしたら、それも叶うんですか」
「ええ、可能よ」
彼女は、唇の端をゆったりと持ち上げた。
「それはさほど難しい願いではない」
一体どうやって?
そう続けようとして口を噤んだ。出鱈目ではないと思えたからだ。
慎重に唾を呑むと彼女はふっと表情を緩めた。
「安心なさい。私はそんなことしないから」
「……どうして? 悪魔なんでしょう? 世界を破滅させることが目的じゃないんですか?」
「世間的にはそうなっているのかしら? でも私は別にそんなことに興味はないもの」
彼女は「そうね」と口許に指先を当てた。
「法則と言うか……私自身、与えられた機能を果たすプログラムのようなものなの。悪魔と呼ばれてはいるけれどこの役割に善悪はない。代償と引き換えに願いを叶えることが私の存在意義であって特定の目的を果たすために活動しているわけではないわ。もちろん私にも意志があるから、その機能をどう使うかは私自身の判断で決める。……ああ、誰に与えられた役割なのかは訊かないでね? 私は知らないから」
「……神さまじゃないんですか?」
「貴方、神の存在を信じているの?」
彼女は、好奇の眼差しを向けてきた。僕は「いえ」と口ごもった。
「でも……考えてしまうじゃないですか。目の前に悪魔がいるんですから」
「そうね。確かにそうね。貴方の言う通りだわ」
すずりさんは、少しばかり思案した。そして掌を上に向けた。
「たとえば、砂漠を想像してごらんなさい」
「砂漠?」
「砂漠よ。広大な砂漠……」
そう語る掌からさらさらと何かが零れ落ちた。
砂だった。
彼女の左手から砂が溢れていた。まるで水が湧き出るみたいに。
「え? え?」
狼狽える僕を余所に、砂はどんどん溢れ出してくる。彼女は愉快そうにその手を掲げた。やがて流れ出た砂が床を満たし、部屋を満たし、そして次に瞼を閉ざした瞬間、
「……どうかしら?」
世界が砂漠になっていた。
僕の部屋どころか……家も、町も、何もかもなくなっていた。右を見ても、左を見ても砂しか見えない。どこまでも荒涼とした景色が続いている。見上げれば冗談みたいに太陽が燃え滾っていた。今の今まで、夜だったはずなのに。
彼女は、一変した世界の中で、ただひとり変わらないようにベッドに座って脚を組んでいた。呆然とする僕の前で、優雅に両手を広げた。
「貴方はここである困難を命じられる。絶対的に不可能な困難を命じられる。それは砂粒を数えるということ。砂漠に存在するすべての砂粒を数え上げるということ。広さは分からない。深さも知り得ない。フェルミの推定も頼りにできない。それでも全ての砂粒を一つひとつ正確に数えなければならない」
僕は、膝を着いて砂に片手を挿し入れた。ほとんどは掌の上に残ったが掬い切れなかったものが指の隙間から逃げ出していった。それだけで一体何万粒あるのか?
それを、全て。
「貴方は、貴方の理解を超えたものを目の当たりにして愕然とする。人知を超えた苦役を前にして途方に暮れる。自分にはできない。何のためにこんなことを? 涙を流し、赦免を請う。どうか許して欲しい。けれど赦しは得られない。貴方は苦しみから解放されない。それでも貴方は頭を垂れる。膝を着き、祈りに手を組み合わせる。どうか……」
「……」
「それが神よ。私はその欠落を埋め合わせる者。さあ、貴方の願いを聞かせて?」
ふと気付けば、世界は元に戻っていた。僕の部屋だ。握っていた手を広げたがそこには何もなかった。ただ少し汗ばんでいた。
「……僕は」
言いかけてから、黙る。
何かの言葉が喉につかえた。想ったことを無意識に口走ってしまったような、そんな決まりの悪さを覚えた。けれど一体何を言おうとしたのか? 自分でもわからず、疼くような不安だけを感じた。
訊かれているのだから答えなければならない。適切な返答を探した。
「……願いと呼べるような、そんな大げさなものはありません」
滑り出たのは、そんな言葉だった。口に出したことで、想いははっきりとした形になった。
「ありません。ただ……」
僕は、僕の現状を打ち明けた。学校のことだ。弱みを曝け出すのだから抵抗はあった。けれど話さずにはいられなかった。すずりさんは何も言わずに聞いてくれた。ちらりとその顔を窺うと、まるで何もかも承知しているような微笑を浮かべていた。胸の奥がまた疼いた。それでもひとしきり最後まで話した。
「別に彼は悪いひとじゃないと思うんです。彼は彼なりに僕と友達でいようとしてくれているだけです。ただ、ほんの少しだけやり方を間違っているだけで……。ううん、ひょっとしたら嫌だと言えない僕のほうが悪いのかも知れない。雰囲気に流されてしまう僕のほうが」
話しながら家鈴さんことを思い出していた。
『君は楽なほうを選んでいるだけだ』
そうだ。僕は選んでいただけだ。人と衝突することを避け愛想笑いでやり過ごしてきた。多少嫌な目に遭っても、人と争うよりは遥かにマシだと賢しく天秤にかけてきたのだ。けれど僕は量り間違えた。その代償はいつの間にか返しきれないほど膨れ上がっていた。その責任を彼に負わせるのは、やはり違うと思う。彼が悪いわけじゃない。
「仕返しをしたいとは考えていません。彼が行いを改めてくれれば、それでいいんです」
「そう。殊勝な心掛けね」
「代償は何ですか? 僕に支払えるものですか?」
見上げると、紅い瞳が、弓なりに歪んだ。
「そうね」
とても、嫌な感じがした。
蜘蛛の巣に触れてしまったような、そんな怖気だ。
無意識に探したのは携帯電話だった。助けを呼ぼうとかそんなんじゃない。ただ大切なものを奪われてしまう気がして胸が騒いだ。予感は的中した。彼女は、腕を伸ばし、落ち着かない僕の両頬に手を添えた。火傷しそうなほど冷たい手だった。
彼女は、唇が触れんばかりに肌を接近させると、瞳を覗き込んで、囁いた。
「家鈴桐子の魂を頂戴?」
息を呑むことしかできなかった。
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