平穏な日常
僕の高校生活は段々と楽しいものではなくなりつつあった。朝起きて布団から出るのが億劫になった。担いだカバンは嫌に重く、玄関のドアはもっと重たかった。ダイヤが止まれば良いのにと願うけれど、そういう気分の時ほど電車は急いで駅に着く。教室にドアを開けるのが気重だった。僕を見つけた佐前くんが、無邪気に挨拶をしてくるのも反応に困った。それでも具体的に何とかしなければという気は起きなかった。
それは家鈴さんとのやり取りが、僕に安らぎを与えてくれていたからかも知れない。
彼女とは、約束したとおりに毎日連絡を取り合っていた。
『調子はどう?』
『学校には慣れた?』
『こっちはそれなりに気楽にやっています』
送られてくるメッセージは僕を気遣うものばかりで……。僕は、一日の終わりにそれを眺めるのが堪らなく嬉しくて、堪らなく待ち遠しかった。どんな恥ずかしい目に遭っても、どんな嫌なことをされても、家鈴さんからのメッセージを眺めている間は満ち足りた気分でいられた。
同時に、それはとても危険なことでもあった。
家に帰れば救いがある。また明日も頑張れる。
そんな気持ちは現状に変化をもたらさないからだ。
その日も、佐前くんは僕にパフォーマンスを求めてきた。普段と違っていたのは彼の機嫌が悪かったことだ。何があったのかは知らない。取り巻きの二人も普段と変わらないように振る舞っていた。でも、どこかぎこちない雰囲気があった。だからだろう。僕が愚図つくのはいつものことだけれど、彼の反応はいつもと異なるものだった。
「いいからやれよっ」
佐前くんは声を荒げ僕の頭を平手で叩いた。叩かれた頭が大きく揺らいだ。その様子が、また、どうにも滑稽だったらしい。自分では全くオーバーなリアクションを取ったつもりはなくて本当に痛かっただけなのに、彼らには可笑し気に映ったようだ。不機嫌だったはずの佐前くんでさえ声を上げて大笑いした。僕はとても痛くて痛くて、涙が滲んで……でも、佐前くんの機嫌が直ったことには、どこかほっとしていた。
それからだった。佐前くんのちょっかいに苦痛を伴うものが混ざり始めたのは。
後ろからシャーペンで尻をつつく。肌を抓る。首を絞める。鼻を掴まれる。僕が派手に痛がったり嫌がったりするのを見物するのが佐前くんたちの新しい娯楽だった。学食で背中に味噌汁を入れられたときは流石に参った。熱さと気持ち悪さでのけぞった弾みで食器の中身をぶち撒けてしまい昼食を楽しんでいる皆に迷惑をかけた。溢した料理を必死で掻き集める僕を見て、佐前くんたちは「しっかりしてくれよ」と大ウケだった。
情けないことに、この段階になってもまだ僕は抵抗したりしなかった。内心は不快で堪らなくてもへらへらと愛想笑いを浮かべた。もし、それをやめてしまったら……怒ったり泣いたりしてしまったら、周囲の、何と言うか……微笑ましい悪ふざけを眺めるような、そんな空気が壊れてしまうような気がして……平穏な日常が壊れてしまうような気がして……おそろしかった。だから僕はピエロを演じた。僕はピエロで、みんなに笑われたり、馬鹿にされたりするのが役割なのだと、そう思い込もうとした。
でも本当はもう気付いていた。
これは劇じゃなくて、僕はピエロでもない。平穏な日常はとっくに壊れている。
僕は、いじめを受けていた。
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