梅雨入りの頃から、佐前くんは金銭を要求し始めた。

 最初は千円を貸して欲しいというものだった。全く気が進まなかったけど「昼を食べる金がない」と泣きつかれたら断ることもできなかった。僕は渋々ながら財布から千円を抜き出した。でも、それが返済される前に、今度は一万円を貸して欲しいと要求された。理由を尋ねても、どうしても必要だからと言うだけで具体的なものは出て来ない。僕は、必ず返してくれるのかと念を押し、その確約を取ったうえで一万円を彼に手渡した。翌日、返済の話を持ち出すと佐前くんは「わかってるって」と背中を叩いた。さらに翌日催促すると「そんな約束したっけ?」とうそぶいた。そのお金は食費も込みでお母さんから貰ったものだったので、さすがにマズイと思った。一週間なら手持ちのお金で乗り切れる。でも来週手元に返って来なければ何をどう言い訳すれば良いのか?

 焦った僕は……勇気を振り絞って、担任の大久保先生に相談をした。

 大久保先生は、まだ若い、教師と言うよりお兄さんのようなひとで正直頼りになるのか微妙だった。でも、こんなこと他の誰に相談すれば良いのかわからなかった。先生は「わかった」「俺が何とかする」と如何にも頼もしい雰囲気で胸を叩いた。ドラマの先生役みたいだと、そんなことを思った。ところが考えらしい考えは何もなかったらしい。お金を返して欲しいという僕の要望を、そのまま佐前くんに伝えたらしかった。

 佐前くんは怒り狂った。放課後、僕の襟首を掴むと乱暴にトイレまで引きずり、歯を剥きながら腹を殴った。執拗に。何度も。息ができなくなるまで。お腹を抱えて倒れ込むと靴の先が身体に刺さった。

「狩尾、てめえ……裏切りやがって」

 彼は、そんなふうなことを繰り返し叫んでいた。

 どうやら佐前くんのなかでは『自分はちゃんと返すつもりだったのに先走った僕が教師に密告した』というストーリーが出来上がっていたらしい。つまりは制裁だった。裏切り者に対する正義の制裁だ。罪人は踏まれ、罵られ、モップの柄先を口に突っ込まれた。歯が折れそうなほど痛かった。それでも佐前くんの怒りは収まらなかった。清掃用のホースを掴み、僕の全身をグショグショに濡らした。そして最後にもう一万を支払うことを命じてきた。精神的苦痛に対する慰謝料だと。彼は僕に唾を吐きつけると手近なドアを蹴り飛ばして消えた。

 僕は、トイレに這い蹲ったまま泣いた。全身が痛かった。びしょびしょの靴下が不快で堪らなかった。一歩も動きたくなかった。痛みと、情けなさと、という感情でグチャグチャだった。滲んだ視界に意識を委ねながら、ただひたすら伏せって泣いた。

 それでも時間が経ち勝手に気持ちが落ち着いてくると勝手に身体が起き上がることを選んだ。

 真っ直ぐに家には帰りたくなかった。そのまま帰れば、きっと僕はお父さんとお母さんに泣きついてしまう。それは駄目だった。冷静になれる時間が必要だった。僕は相応しい場所として図書館を選んだ。昔からそうだ。好きな本に囲まれていると自然に心が落ち着いてくる。しかし当然……ずぶ濡れの身体は来館者として相応しくない。職員のお姉さんに見咎められてしまった。

「そんな格好だと風邪を引いてしまいますよ?」

 その日は雨だった。だから傘を盗られたという言い訳も不自然にはならなかった。その女性は、不審がることもなく、まっさらなタオルを差し出してくれた。たぶん濡れた手で本を触られたくないというのが本音だったんだろう。でも、その声があまりに優しいものだから押し殺していたものがとめどなく溢れ出してきた。僕は、惨めさをタオルで隠した。上手く隠せていたかどうかは、目を覆っていたので分からなかった。

 ひとしきり感情を吐き出したあとぼんやりと館内を歩いた。そして選択を間違えたことに気が付いた。いつものなら僕をワクワクさせてくれるたくさんの背表紙。タイトルを眺めているだけで時間を忘れてしまうそれらに何も感じなかった。それほどまでに心が擦り減っていたのだ。愕然とした。このまま感情が死ぬんじゃないか。そんな不安が脳裏を過ぎった。書架を見れば不吉な文字ばかりが目に入ってくる。苦悩。絶望。裏切り。犠牲。死。そして……、

「……なんだ、これ」

 ひときわ……薄気味悪い背表紙に縫い止められた。指が無意識に吸い寄せられる。手に取り表紙を確認してみた。僕を不安にさせる文字はどこにもない。それどころか著者も、タイトルも、何も書かれていなかった。

 黒い装丁の本だった。

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