第二話 ジュデッカ

幸せの時代

「狩尾雄大、君は本当にバカだな」

 家鈴桐子は綺麗な女の子だった。

 背中まで流れる黒髪に、すっと伸びた鼻筋。そして琥珀色に輝く瞳。

 クラスの皆からは人形のようだと囁かれていた。それは彼女の美しさをそのまま形容した言葉であったろうし同時に触れ難さを含んだ言い回しでもあった。僕たち男子たちの間でも彼女の人気は高く、学校の女の子に……とても失礼な話ではあるが、点数を付けたりする雑談のなかでもいつも高く評価されていた。でも話題が中学生特有の猥談に移ったとき彼女が話のネタになることは不思議となかった。皆口に出さずとも感じていたのだ。家鈴桐子と自分たちの間に横たわる、深い溝のようなものを。

 彼女は、いつも独りだった。

 別に他の女子から除け者にされていたわけじゃない。彼女自身が拒絶を示したわけでもない。話しかければ返事はするし笑顔を溢すことだってある。でも輪の中に溶け込んでいる姿は見たことがない。誰かと一緒にいるところを見たことがない。気が付いたら、いつもひとりで席に座っている。いつもひとりで空ばかり眺めている。

 それは緩やかで、自然な隔絶だった。

 そんな彼女と、一緒に放課後を過ごすようになってから、もうすぐ一年がたつ。

 町の西側にある住宅街。坂道を先行する彼女に、僕は苦笑を返した。

「そんなにバカかな?」

「バカだね。大バカ者だ。あんなの面倒事を押し付けられただけじゃないか。皆、君に頼めば断られないと思って何もかも君に押し付けてくるんだ。断ればいいんだ。君はバカだ」

 長い黒髪がぷりぷりと揺れる。犬の尻尾みたいで可笑しかった。「何か文句でも?」と振り返ってきたので、いやいやと手を振っておいた。

 家鈴さんが、僕たちの……いや、僕との間にある溝をぴょんと飛び越えてきたのは、ほんの些細な出来事がきっかけだった。大雨の日、傘がなくて途方に暮れていた彼女に傘を貸してあげた。たったそれだけのことだった。翌日傘を返しに来てくれた彼女は、憮然とした表情で「昨日はどうも」とお礼を言ってくれた。それから何となく話をする仲になり、トロ臭い僕を何かと世話がってくれるようになった。今日も行事絡みの雑用を一緒に終わらせたばかりだ。

 僕は、後頭部を手でさすった。

「でも結局は誰かがやらなきゃいけないわけだし、皆だって困るだろうから」

「それで君が困ってりゃ世話ないね。君はグスコーブドリじゃないんだ。皆の本当の幸せのことなんて考えなくてもいいんだ」

「でも、家鈴さんは手伝ってくれるじゃないか」

 彼女は「……そりゃあ、まあ」と頬を掻いた。

「でも、それはボクがたまたま暇を持て余していたからだよ。でなけりゃ誰が君の手伝いなんかするもんか。メンドくさい」

「文化祭のときだって手伝ってくれたでしょ?」

「……何だい狩尾。君はボクのことを暇人だと言いたいのかい?」

 家鈴さんは、ふんと息を吐いた。スカートを翻し、またぴょこぴょこと坂道を上がっていく。僕は、こっそりと笑った。少し間を空けて彼女の背中について行く。

 一緒に放課後を過ごす、と言っても特別な目的があるわけじゃない。……いや、あるとも言えるし、ないとも言える。でもどちらかにマルをつけろと言われたのなら、やっぱりない。ただ目当ての場所はあった。

 いつもの場所に辿り着き、心地良く胸を膨らませた。

「今日も絶景だねえ」

 家鈴さんは、たなびく黒髪を撫でつけた。

「代わり映えなんかしないよ。いつもと同じさ」

「うん、だから絶景だねって」

 笑顔を向けると、彼女はつんと鼻を突き出した。子供っぽい仕草が何だかとても微笑ましい。彼女はムッとして「何だい」と目を尖らせる。「何でもないよ」と返し、心の中でそっと付け加えた。

 この場所は君が連れて来てくれたんじゃないか。

 そこは丘の上の住宅街の、一番高い場所に作られた公園だった。公園と言っても遊ぶようなものは何もない。一面の芝生に遊歩道が通っているだけの地味な空き地だ。いつ来ても子供の姿はなくて見かけるのはせいぜい犬を散歩させているお爺さんくらい。でも、それはとても勿体ないことだった。

 この高台にある公園からは、僕たちの町が一望できる。

 ひとも、鉄道も、全てがミニチュアのように小さく映るのだ。

 見晴らしの良いこの場所で陽が沈むまで一緒に過ごす。いつしかそれが僕たちの日課になっていた。お薦めの本の話をしたり、受験の話題で頭を抱えたり。ただ静かに景色を眺めることもあった。来る時間はまちまちだけど、帰るのは決まって六時半。彼女が「帰ろうか」とスカートを叩き、別れ道まで一緒に歩く。それだけが、僕と彼女の時間だった。

 家鈴さんは、いつものようにベンチに座るとバッグから水筒と、菓子パンを二つ取り出した。うちひとつをこちらに差し出してくる。ありがとうと受け取り、もぐもぐと二人で頬張った。

「実際、君はどう思っているのさ」

 横顔が問いかけてきた。

 何の話題か分からないでいると、彼女はこくりと喉を動かした。

「君が面倒事を押し付けられている件についてだよ。まさか、本当に自己犠牲の精神じゃないだろうね」

「自己犠牲だなんて。大げさだよ。さっき言った通り、皆が困るからやっているだけで」

「狩尾雄大」

 彼女は、びしりと指を突きつけてきた。

「それは君の本心か? ボクに建前を使っているのか?」

 突きつけられた指先を見やる。彼女の手はいつも薄い手袋で覆われている。過剰な潔癖症とも、何かの傷跡を隠しているとも噂されていた。でも僕は一度だけ布の下を見せて貰ったことがある。すべすべとした手の甲があるだけで目立つものは何もなかった。

(……家鈴さんはなんて言ってたっけ。格好良いから?)

 その程度の可愛らしい理由だった気がする。思い出そうと浮雲を眺めているうちに彼女は指を引っ込めた。パンを片手に両脚を組み、背もたれに身体を傾けた。

「君は選んでいるだけだ。周りの人間と軋轢を生むぐらいなら自分が嫌な想いをするほうが遥かに楽だってね。随分と小癪な考え方をするじゃないか? でも、我慢したところで君を褒めてくれる人間なんて誰もいないぞ。上辺の感謝を渡されながら使い勝手のいい持ち駒としてストックされているのが君の現状だと認めるのは自尊心が許さないか?」

「そんなの、よくわからないよ」

「かも知れない。けど、わかるべきだ。そんな二択を強要してくるコミュニティなんてさっさと見限ったほうがいいってことにね。君が我慢する必要なんてどこにもないんだよ」

 まくし立てた勢いでパンの残りを一気に詰め込む。リスみたいになった頬を眺めていると何だか嬉しさが込み上げてきた。彼女は「何が可笑しいんだい?」とモガモガ言った。僕は、パンを少しだけ口に含んだ。甘い味が口いっぱいに広がった。

「ありがとう。家鈴さんは僕のことを心配してくれてるんだね?」

 彼女はけほんと咳き込んだ。慌てたように胸を叩き、水筒の中身をぐいと飲み干した。そして、ぶはっと息を吐くと夕陽で真っ赤に染まった顔で「だ、誰が君のことなんか!」と語気を強めた。口許をハンカチで拭い「君の態度が気に入らないだけだ!」「いっつもへらへら笑いやがって!」「チョーシに乗るな!」と言葉を並べた。僕は「ごめんごめん」と降参のポーズを取った。彼女はむうと口を結ぶ。華奢な両脚を投げ出して言った。

「自己犠牲なんてくだらないよ。身包み全部剥がされて溶鉱炉に沈められるのがオチだ」

「そうかもね。でも、それもあと少しだよ」

「……」

 そうだ。あと少しだ。あと二週間もすれば僕たちは卒業を迎える。今はもう消化試合みたいなものだ。桜が満開を迎えて散る頃には、僕と家鈴さんは別々の高校に通っている。

 彼女は、しばらく静かにしていたが、やがてぽつりと小声で漏らした。

「……認めるよ。君が心配だ。君は一人でやっていけるのかな」

「お母さんみたいなこと言わないでよ。それより僕は家鈴さんが心配だな。家鈴さん友達いないから」

「百年早いよ。君がボクの心配なんてさ」

 家鈴さんはカラカラと笑った。そうして水筒のコップに中身を注ぎ、揺れ動く水面をじっと見下ろした。彼女が両手を傾けるたびに波が白く光を放つ。見上げると街灯が灯っていた。いつの間にか太陽は隠れてしまっていた。群青色の空にはもう星が輝いていた。

 終わりの時間は、すぐそこに迫っている。

「高校に行っても、またこうして会えるかな」

「会えるよ」

 彼女は、即答した。

「会える。そのポケットのなかにある文明の利器は何のために存在すると思っているんだい?ボクたちは流れ星よりも速く言葉を交わせるんだ。返信が遅れたりなんかしたら絶対に許さない。それに……夏には大きな祭りがあるだろう? ボクはそれをとても楽しみにしているんだ」

「……そうだね。じゃあ約束しなきゃだね」

「うん、約束だ、親友」

 彼女は微笑み小指を伸ばした。僕はその指に指を絡ませた。

 僕たちの中学生活はこうして終わりを迎えた。

 振り返れば、人生で一番幸せな時期だった気がする。

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