幕間 悪魔を憐れむ歌

悪魔を憐れむ歌

『お気に召さなかったようね?』

 彼女が、囁いてくる。耳元より、もっと、ずっと近くから。頭蓋の内側に音が沁み渡った。その静謐な声音に安らぎを覚えないと言えば嘘になる。このひとの声はいつだって私に安らぎを与えてくれる。でも今は聞きたくない。このひとの、こんな声は聞きたくない。

 視覚を閉ざし、目の前の光景を遮断した。

 波の音に交じり、囁きが続く。

『何が不満なのかしら? 見て。とても美しい……幸せな結末だわ。腐り堕ちていくしかなかった彼が、あの海よりも深い愛を得た。無限の愛を得たのよ。それは完全なことではないの? それとも、貴女まで私をペテン師呼ばわりするのかしら? 奇跡の模倣者に過ぎないと?』

 私は、否定を示した。

 彼女は、つまらない玩具に固執する駄々っ子を前にしたような――事実、彼女からしてみれば聞き分けのない童子に過ぎないのだろうが――そんな呆れを見せた。

『冗談よ。言い過ぎたわ。でも……何度も言っているでしょう? 人間は貴女ほど愚かではないの。貴女ほど強くはないし、度し難い存在でもない。賢しく勘定をして利潤を得る。無益を切り捨て、有益を得る。結果として均衡を見誤ることだってあるけれど……だからこそ哀れでいじらしいのだし、貴女のような存在が尊く在れるの。違うかしら?』

 私は、なおもきつく否定する。

 彼女は、しばし黙考したようだ。しかし反応に大差はなかった。

 苦笑と呼ぶべきものを浮かべた。

『ありがとう。私を憐れんでくれているのね? 私は、貴女がそう想ってくれることが堪らなくうれしい。素敵な歌声を聞かされているみたい。でも、ごめんなさい。私は、私をやめることができない。貴女が貴女をやめることができないように。私は私をやめることはできない』

 私は、天を仰いだ。

 茜色の雲が意志もなく空を滑っていく。運ぶ風にも、意志などない。全てが定められたとおりに動き、定められたとおりに消えていく。そんな淡白なものに、こんなにも感情が揺さぶられるのはなぜだろう。沈んでいく夕陽が、あんなにも切なく感じられるのはなぜだろう。

 彼女は、取り込んだ潮風に満足を覚えたようだ。それが伝わってきた。

『直にまた扉が開く。誰かが私に何かを願う。私は、私の役割を全うする』

 そして悪魔は……悪魔と呼ばれた彼女は、心臓のある場所に優しく触れた。

「愛してるわ、すずり。何一つ捨てられなかった憐れな娘。次は、貴女が満足のできる結果が得られると良いわね?」

 私の意識は、次第にまどろみに溶けていった。

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