無限の愛
「お前は一体……何なんだ……?」
晩飯を無言で掻き込んだあとのことだ。香澄が冷蔵庫からそれを取り出したとき、理性が限界を超えた。椅子を蹴って立ち上がると彼女は困惑しながらも笑った。
「何って……」
視線を落とす。手元には紙箱があり、開かれた横蓋から中身が覗いている。
香澄は、蝋燭を剥がす手を止め、愛おしそうに僕を見上げた。
「今日は望くんの誕生日でしょう? チョコレートケーキが好きだって言ってたからそれを」
「そんなことを訊いてるんじゃない」
テーブルを回り込み、台に手を叩きつけた。香澄はびくりと身を竦めた。
話しやすくなったところで、もう一度繰り返した。
「質問に答えろ。お前は一体何なんだ?」
返答はなかった。当惑と怯えの眼差しだけ返ってくる。
奥歯を強く噛んだ。軋む音が、苛立つ心に一層の不快をもたらした。
もはや我慢ならない。
とぼけた面に唾を飛ばした。
「怒りもしない。蔑みもしない。裏切らないし、見放しもしない! お前のような人間は存在しない!」
「何を、言っているの……?」
笑う。取り繕うように。
「私は、私だよ。佐倉香澄。望くんの目の前にちゃんといる」
「質問に答えろォッ!」
腕を振るった。
紙箱が弾け飛び、床にクリームがぶちまけられた。
香澄は数秒呆けたあと、崩れるように床に膝を着いた。「ああ」と喉を震わせ、ぐちゃぐちゃの生ごみを両手で掬った。目から涙が溢れていた。
「そんな……わ、わたしは……ただ、望くんのお誕生日をお祝いしたくて。お祝いしたくて……それだけで……それだけなのに」
「だがお前はそれすら赦すんだろう?」
見下ろし、告げる。
「意志のない人形め。人間のフリをするな。吐き気がする」
「私は……」
瞳を閉ざし、首を振る。
僕は、その手首を握り、捻った。「痛ッ」と短い悲鳴と共に手からぼたりとクリームが零れる。汚らしく床に落ちたそれを、僕は足で踏みつけた。一つ齢を重ねたことを祝福する、その象徴。
何がめでたい?
「い、……痛いよ。望くん。おねがい、離して。おねがい」
香澄は、一応はそれらしく振る舞う。
だが、そこに何の感情も宿っていないことに、俺はとっくに気付いている。
無視し、空いた手を香澄の喉元に伸ばした。
「……かっ……」
力を込める。香澄は、不細工な魚みたいに口をパクパクさせた。
そのまま押し倒し、馬乗りになる。もう片方の手を伸ばした。
「こうやって苦しめてもお前は怒らない。慈悲深く僕を赦す。そうなんだろ? だったら、死ぬまでそうしてろ。最期まで健気を演じてみろよ」
「か……はっ……」
香澄は、僕の手首を掴み返した。
股の下で、狂ったみたいに胴体をよじる。
僕は嗤ってやった。
「らしくなってきたじゃないか? そうだ。抵抗しろよ。爪を立てて肉を毟れ。お前の敵意と殺意を見せろ。俺が憎いだろう? 殺したいだろう? 俺は、お前を罵ったぞ? 何度も傷つけ、何度も凌辱した。心も、身体も。何度もだ! 憎いはずだ。殺したいはずだ。それが普通なんだ。お前は……」
皮膚に爪が喰い込む。
「……普通に……ただ僕を……」
瞬間、香澄の指が手首から離れた。衣がするりと滑り落ちるように。
脱力した腕が床に広がる。両脚はすっかり大人しくなっていた。
僕は、はっとしてその瞳を覗き込んだ。そして、
「あ……」
悟った。本当の意味で。ようやく。
悟ったのだ。空が落ちてくるみたいに。
もう、どうやっても。何をしても。
「香澄」
その瞳は、僕を見ていた。
死んだわけではない。その程度に強く締めていたが、死んだわけではない。潤んだ瞳は、しっかりと僕を包んでいた。そこには怒りも、憎しみもない。恐怖も、殺意も、欠片も見えない。
優しさがあった。優しさだけがあった。
果てが、なかった。
「ああ……」
締める手が、力なく離れた。病人のように戦慄き、もはや用を成さなくなった。
何もできなかった。できるはずがなかった。
「あああああああああ!」
僕は、哭いた。
香澄の胸にすがりつき、落ちていくように哭いた。
「……いいのよ」
彼女は、ただ僕を抱きしめた。
あれから、身の回りのものをすべて処分した。
必要のなくなったスーツに、読むことのない雑誌類。パソコン。絵を描くための道具。
漫画を売り払うとき香澄が少し残念そうにしていたが僕の気持ちを優先してくれた。
それと、黒い装丁の本。
遊園地で会って以降すずりは姿を見せなかった。すっかり役目を果たしたということなのだろうか。僕も、もう会う必要は感じなかった。あの偉そうな顔が懐かしい……などと考えていたら、あの悪魔はまたひょっこりと姿を現すかも知れない。よそう。願うことは何もない。支払えるものも。
黒い本は香澄が勤める図書館に寄贈した。正確には「著者の分からない本は受け取れない」と断られたのだが黙って書棚に挿し込んでおいた。見つけた誰かが読むだろう。そして何かを願うのだろう。少女の姿をした、あの美しい悪魔に。
日曜日の夕方、僕たちは電車に乗って海へ出かけた。
浜に望み、何をするでもなく、一日の終わりを二人で眺めた。
海も、空も、砂漠みたいに広かった。
夕陽色のそれらに意識を委ねていると、いつか悪魔の言ったことを思い出した。
血は特別な液体。流れ出た魂の一部なのだと。
「香澄。色々とすまなかった」
ぽつりと、そんな言葉が零れ落ちた。
「許してくれ。どうかしていたんだ。きっと、どうかしていたんだ。許してくれ」
それは必要のない言葉だった。
必要がない。言葉だけではない。もう何も必要がない。
欲しいものは得られた。必要なものを全て捧げて。
だから、もう何も要らない。
「これからは二人で生きて行こう。穏やかに、ずっと、いつまでも」
沈んでいく太陽が、香澄の姿を赤く染め上げていた。唇に、胸元、そして腕。塗り上げられた指先が、僕の指先に絡んでくる。二度と解けないように。
僕は、僕を逃がすまいとするそれを、静かに見下ろした。
足元の影法師が「ええ」と頭を動かした。
「私は、あなたを無限に愛しているんですもの」
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