アーサー、あるいはくそゴリラのお出まし

 上層界の入り口でタクシーを降りると、外は真っ白だった。

 根っこの終わりが下層界の終わり。

 ここから先は幹の世界だ。

 オウムの運転手ははしゃいで車外に出たけど、即座に警備員が飛んできて自分の車に蹴り戻される。

「雪なんて初めて見たよシンデレーーラ!」

 あたしは手を上げて応えた。

 

 乗り継ぎのタクシーの運転手は上層界の住人で、当然ながらパリッとした紺色の制服を着てて、そんでもってあたしの臭いに鼻をしかめる。

 下層界の臭いは腐敗と垢の臭いだ。

 降り積もる雪でも消すことはできない。

「次、その顔したら鼻をへし折るからね」

 三つ星の腕章をつけたマレーグマの運転手は慌てて、

「とんでもございません、マダム」

 と言った。

「行先はエンパイアステート・イン。七番駐機場につけて」

「イエス、マダム」

「次、マダムって言ったら歯をガタガタにしてやるわよ」

 

 上層界のタクシー乗り場でタキシングしているのはイエローキャブに飛行エンジンをつけたポンコツではなく、最新のイオン式エアロプレインだ。

 静かなエンジン音とともに滑らかに離陸した小型機は、優雅な弧を描きながら樹冠を目指す。

 雪がふわふわと降り注ぎ、上品な木肌に張り出した家々には橙色の明かりがいかにも暖かそうに灯ってる。

 あの中にはどんなやつらが住んでるんだろう。毛玉の無いセーターと、美味しい七面鳥が完備されてる?

 上層界に入ると樹はすっかり大人しくなって、ほとんど動きやしないんだって。幹をくりぬいて中に人が住んだって、はいそうですかご主人様、ってな具合にね。

 あたしらが根っこに同じことをやると、次の日には寝床が無いよ。

 過ぎて行く家の玄関にはきらきらしたクリスマスツリー。

 空飛ぶトナカイは種族労働基準法違反で何処にもいなくなったけど(本物の人間だからね、トナカイってのは)、その代わりに伝説の生き物が飾られている。

 クリスマスソングをかけた自家用ホバーがタクシーの近くを飛び過ぎた。その運転席に座った赤い服のサンタクロースを見、あたしは今朝がた樹根から噴き出した赤い霧を思い出してぞっとした。

 


 あたしたちの暮らすニューヨーク樹海は、ほんの百年くらい前までは地面に高層ビルが建ってたって聞く。それが度重なる天災と戦争で地盤がぐちゃぐちゃになって住めなくなっちゃった。

 七つの駐機場を抱えるメガホテルになったエンパイアステート・インは、その古き良き時代の遺物であるエンパイアステートビルが、発芽した喜界樹に貫かれて空へ持ち上げられたのをうまいこと改築して使ってる。

 ……って、音声案内が言ってた。

 ええ、知らなくて悪いわね。あたしは学校なんて行ってないんだからね。

 これでも急ピッチで詰め込んだほうよ。

 

 で、今日は何であたしがここに来たかって言うと――ドアマンが鼻をひくつかせながら「こんにちは、シンデレラ」とあいさつし、あたしは睨みながら通り過ぎる――新曲のMV、つまりミュージックヴィデオってやつを撮るためなの。

 あたしの職業はラッパーだ。

 歌うんだよ、地声で。

 ゴリラのDNAはすごく都合が良かった。なんでって、だってあたしの祖先はジャングルで声を響かせてたんでしょ。ニューヨークにそっくりじゃない。

 でも驚かないでね、三ヶ月前はあたしは薄汚いリングで賭けボクシングをしてた。

 八百長が嫌いだから容赦しなかったし、だから人気は全然出なくて終わったけど、後悔はしてない。

 

 それから色々あって大逆転オーディションシンデレラってのに出て、そこで歌ったラップがウケた。

 たちまちチャートを駆け上がったあたしのデビュー曲が、今年いちばんダウンロードされた楽曲になることは間違いない。で、時を置かずにどんどん歌っていこうっていんで、あたしの毎日のように下と上を行き来するせわしない生活が始まった。

 上にいつづけた方がいいんだろうけど、そうするとあたしの部屋に遊びに来るようなやつらが飢え死にしそうで気が気じゃないんだよ。

 下層界の住人はすぐ死ぬ。

 理由も無く消えちゃうことがある。

 

 新曲のタイトルは『BEAT Down』。

 エンパイアステート・インの一角に作られた新しいMVの撮影会場は、ボクシング用のリングに似せて作られてた。

 撮影用のホールに入るなり、あたしは背筋のあたり、ゴリラ界の強者の証であるシルバーバックが逆立つのを自覚する。

 あたしは今、凄く嫌なことを考えつこうとしてる。何かは分かんないけど。

 鼻から入ってきた何かの臭いがあたしの心を騒がせてる。

 それを自覚して心にシャッターを閉めた。鍵つきで、防犯装置がついてて、ゾウとかサメとか戦車がぶつかっても平気なやつを。

 

 ホール内の照明が一旦消され、リングの上を照らすスポットライトだけが煌々と輝く。

 観客のいない寒々とした舞台。ボクサーパンツを履いたあたしがその上で役者と打ち合いをする。

 監督はサングラスをかけたちびのアルマジロで、絶対CGは使わないと言い張った。

 本物のボクサーと本物のラッパーが撮れるのは今しかなくこの千載一遇の機会を逃しては監督人生に一点の汚点をなんとかかんとか。

 あたしはそいつの頭に台本を投げつけてやり、しかるのちにリングに立った。

「それで、どうしろって? 役者はまだなの」

 アルマジロ監督の顔から台本がぼとんと落ちるのとほとんど同時に、ホールのドアが開く。

 タンクトップ姿の筋骨隆々たる雄のゴリラが入ってきた。


「ようアリス」

 あたしの唇がめくりあがり、筋肉が隆起して戦闘態勢を取る。

 ご先祖様が受け継いできたDNAが、あたしにそいつをぶちのめせと言っていた。

 言われなくてもあたしはそいつを殴り殺す気分にある。

 ホールに入った途端の嫌な臭いは、こいつか。

 一回嗅げば忘れられない、文字通り鼻につく臭い。

「ようよう、おまえの喉を潰したら気持ちいだろうなアリス?」

「待てよアーサー。試合じゃない、撮影なんだ」

 慌てて助手のヤマアラシが割って入ろうとしたが、答えがわりにアーサーは照明のスタンドを殴り倒し、監督の前にあったデスクを拳で叩き割った。

 そして咆哮する。

「アアアアアアアアアリイイイス!」

 

 カチンときた。

 こいつの顔だけは二度と見たくないと思ってた。

 頭に血が上ったあたしはそいつに向かって啖呵をきる。

「来なさいよ。やれるもんならね、くそオス」

 胸を叩いてドラミングを響かせると、アーサーの顔がくっきりと憤怒の相になる。

 アルマジロ監督が、

「カメラを回して! 何ぼさっとしてる! 世紀の対決だよ」

 とぴいぴい叫び出したその中で、あたしはリングに跳び上がるアーサーに殴り掛かった。

 頬を打たれた身長三メートルの巨大な雄が憎悪を滾らせてリングロープをしならせる。

 おかえしにアーサーの拳が恐るべき速さで飛んできた。

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