真実

 空は晴れ、空気は澄み、出かけるには良い日だ。

 たとえ彼女と過ごす最期の日であっても。

「騙り部さん。おはようございます」

 いつもより少し早く起きたつもりだったが、すでに西島は起きていた。キッチンで母といっしょに朝食の準備を進めている。みそ汁のいい匂いがこちらにもしっかりと届いてくる。

「おはよう西島さん。体調はもういいの?」

 心配して尋ねると、彼女は困惑した様子で答える。

「私は不死身の化物ですよ? どんな怪我や病気もすぐに治してしまいます」

 その言葉に嘘はない。だがその中には心の傷や心の病気は含まれているのだろうか。もしこの世に心の傷を一瞬で癒す化物がいるのなら西島の心の傷を癒してほしい。そのためなら僕はなんでも差し出す。金でも体でも命でも魂でもなんでも。しかし、そんな都合のいい存在がいるわけがない。

「楓さーん。ふじみちゃーん。おはよー。きゃっほー!」

 暗く重い雰囲気を吹き飛ばすように父親が現れる。あまりにもタイミングが良すぎる。多分、そういうことなのだろう。ここは一つ、今までのことも含めて感謝の言葉を述べておこうか。

「あ、なんだ。正語もいたのか。おはよう」

 前言撤回。この場でそんな言葉は必要ない。今ここで必要な言葉は一つだけ。

「おはよう。親父」

 それからみんなでキッチンから料理を運んでいき、それぞれの席に着く。今日の朝食はご飯、焼き魚、納豆、焼きのり、漬物、そしてみそ汁。これが最期ということで、みそ汁は西島一人で作ったらしい。そしてみんなが席についてから口をそろえて食前のあいさつをする。

「いただきます」

 それ以降は父も母も、僕も西島も一言も話さない。静かな食卓だ。いつもは賑やかなのに、今朝だけは別の家庭の食卓のように思えた。最期の晩餐とは、こういうものなのかな。

「千と一夜を明かしてみれども騙り尽くせぬこの世の嘘なら騙ってみせよう命尽きるまで。舌先三寸、口八丁手八丁、この世に騙れぬものはない。騙り部一門ここにあり」

 だが突然、大きな声で父親が騙り部一門の口上を述べた。

 このタイミングでどうして、と驚いていると、今度は隣の席の母が口を開いた。母が口上を述べるところを見たり聞いたりしたのは初めてかもしれない。けれど古津家に嫁いできた時点で必ず一度は唱えているはずだ。絶対に。

 僕もそれに応えるように口上を述べる。父と母がどんな理由でそれを述べたのかはわからない。だがそれに込められた想いはしっかりと伝わってきた。

 西島は状況を理解できず、不思議そうに首をかしげていた。

 その日のみそ汁は、いつもよりしょっぱかった。


「お義父さん。お義母さん。短い間ですが、お世話になりました」

 西島は、頭を深々と下げて別れのあいさつを済ませる。長くて綺麗な黒髪がだらりと下がる。その光景を見て、とても懐かしいと思ってしまった。あの時の僕が拒否したことを、これから実行することになる。

「またね、ふじみちゃん」

 本当に最期の別れだというのに、父は最後まで変なことを言う。

 母は黙って西島のことを抱きしめて頭を撫でてあげていた。

 その様子をうらやましそうに眺めていた父が僕に向かって両手を広げてきた。満面の笑みを浮かべながら。冗談でもやって良いことと悪いことがあるぞクソ親父。

「それじゃあ行ってきます」

 玄関先で靴を履きながら両親に告げる。西島も準備を終えてまた頭を下げてから家を出る。

「寒くない?」

「大丈夫です」

 家から目的地まで早足で歩いても一時間はかかる。タクシーに乗るか自転車で行く方が楽だ。けれどこれが本当に最期のお別れだ。やはりゆっくりでもいいから歩いて行こう。

「騙り部さん」

「ん?」

「手を」

「んん?」

 不意に西島から呼ばれてなにかと思っていると手を握られた。あまりに突然だったので驚いた。

 これはとても心臓に悪い。握る手の平も顔も熱くなってまともに彼女の方を見られない。目的地に着くまであれこれ話すつもりでいたのに、考えていた話題が全て頭から吹っ飛んでしまった。それでも、家を出る時からずっと気になっていたことを聞いてみる。

「西島さん」

「なんですか?」

「どうしてセーラー服なの?」

 なぜか西島は秋功学園指定の制服を着ている。黒のセーラー服、朱色のスカーフ、もみじの校章バッジまでしっかり付けている。見慣れてしまったはずの姿でも、今日で見納めかと思ったらその美しさに見惚れてしまう。制服といっしょに死をまとっているかのようだ。

「喪服のようだと思ったからです」

 なるほど。そういうことか。僕も出る直前に同じことを思いついて学生服に着替えた。

「それから騙り部さんは、女子のセーラー服姿がお好きだと教えていただきましたから」

 誰がそんなこと言いやがった。

 決して嘘ではないから否定しないが、最期の最期までなんとも締まらない。

 それなら、手をつなぐことも誰かに言われたのかな。

「ここ……ですか?」

 西島がぼんやりとした顔で尋ねる。

「うん……ここだよ」

 僕は微笑んで答える。

 西島ふじみ。不死身のふじみの最期を迎える場所は、ここしかないと決めていた。

 僕と彼女が最初に会った場所。秋葉山の奥の奥のそのまた奥にある騙り部一門の旧家。その庭にある大きなもみじの木の下――。

「秋功学園七不思議の一つ、幸福のもみじのことは知っているよね?」

 僕の問いかけに西島は小さくうなずいた。

「あそこのもみじは、もともと騙り部一門が世話していたものなんだ。秋葉家に仕えていた時にはおもしろい話を聞かせる以外にもそういう雑用をこなしていたんだと思う」

 後に学園が建てられて、もみじは大きく育ち、いつしか幸福のもみじと呼ばれるようになった。あそこで愛し合った男女は一生幸せになるという逸話ばかり有名になっているが、どうしてそう呼ばれるようになったのかは知らない人の方が多いだろう。

 案の定、西島もその成り立ちまでは知らなかったようだ。

「もみじの木の下には死体が埋まっている、という逸話を聞いたことがない?」

「え……?」

 僕が話を切り出すと、西島はひどく驚いた表情を見せる。

 幸福の陰には犠牲がある。どんなに幸福だと感じている人でもその陰には犠牲にしてきたものがある。人によってそれは違うけれど、幸福のもみじの陰には犠牲になった人の命がある。それも一人や二人ではないだろう。百人、いや千人以上かもしれない。

「この町の権力者、秋葉一族は周りから命を狙われることが多かった。人間からも化物からも。一度でも見逃せばまた命を狙ってやってくる。だから捕まえるだけでなく殺してしまう。そしてその死体はもみじの木の下に埋められ、秋葉家の幸福の犠牲になっていったんだ」

 僕は目線をもみじの木の根元にやる。西島はそこを見ないように目を背ける。

「ごめん西島さん……僕たちにとって思い出のもみじの木をこんな風に使って……」

 自然と口から謝罪の言葉が出ていた。それでも彼女はこちらを見ないで返事もしない。

「不死身の化物を殺す方法が……これ以外思いつかなかった……本当にごめん……」

 心臓を突き刺しても首の骨を折っても彼女は死ねない。

 当然だ。どんなに傷ついても死ねないから不死身の化物と恐れられているのだ。

 けれど騙り部一門が育ててきたもみじの木なら、人間も化物も皆平等に受け入れてきた。それなら不死身の化物も生かさず殺さず受け入れてくれるのではないか。それはつまり、もみじの木の養分として吸収し続け、秋になれば美しく真っ赤な葉を見せてくれるのではないか。僕はそう思った。だからここを殺す場所に選んだのだ。

「謝らないでください……」

 怒るでもなく悲しむでもなく、いつもの感情を見せない表情のまま西島が口を開いた。

「痛みも苦しみもなく楽に死ねるなんて思っていません。血を吐いて地べたをのたうち回っても死ねるなんて思っていません。それでも私が死ぬことで誰かが幸せになるのなら、この命をどうぞお使いください。化物として生まれたのに、人間のお役に立てるなら……本望ほんもうです」

「……なにか思い残すことはある?」

「いいえ」

「……最期になにか言っておきたいことはある?」

「いいえ」

 それからなにを聞いても西島は、いいえとしか言わなくなってしまった。

 それなら僕から最期の話をさせてほしい。

「西島さんは0番街の怪人を見つけて異世界へ行きたかったんじゃないの?」

 最初に0番街の怪人について教えてくれた時、怪人はどこか知らないところへ連れて行ってしまうと言っていた。さらに記事を書いたあいつも、読者の多くは『異世界』に憧れている者が多かったと言っていた。彼女もそのうちの一人だったのではないか。人間に恐れられ傷つけられない世界に連れて行ってほしいから、0番街の怪人を探し求めていたのではないか。秋葉駅の0番線を異世界へつながる路線と勘違いしていたこともそういうことではないか。

「いいえ」

 僕の予想はすぐに否定されてしまう。

「さつき野めい子さんを探していたのは同じ化物の友達が欲しかったからじゃないの?」

 今まで学園で話すことが全くなかった西島が、あの日教室で僕に話しかけてきた時は驚いた。すぐにでも話したいからと思っていたけれど、あれはクラスに、人間社会に溶け込もうと努力したからではないだろうか。たとえ化物と恐れられても、誰か一人くらいは優しい言葉をかけてくれる人がいないかと。きっとあの時、僕が思っている以上の勇気を出していたのだろう。さつき野めい子さんを探す理由は会って話したいからと言っていた。これはもう言葉通りの意味だろう。人間の同級生では難しいと思い、同じ化物なら……と。

「いいえ」

 それもまた否定されてしまう。

「オカルト雑誌を読み続けていたのは同じような不死身の体に悩む人を探していたから? もしくは不死身の特異体質を治す方法が見つかると思っていたから?」

 0番街の怪人さつき野めい子さんなどを探すとき、西島から雑誌を借りて読ませてもらった。あいつの記事も、それから別の記事も読んでみた。だがどれも胡散くさい内容ばかりで、それ以外は広告ばかり載っている雑誌だった。マイナーで売れない雑誌と言っていたのがよくわかる。それでも毎月購読していたのは、もしかしたら……と期待したからではないか。

「いいえ」

 相変わらず西島は否定の言葉しか発しない。それにしても……。

「騙るに落ちる……」

 今の西島にはその言葉がお似合いだ。騙り部一門が嘘や騙りを評価するときに使う表現だ。そしてそれは、決していい評価とは言えない。上手く嘘をついて真実を隠そうとしているが、全く隠せていない。声にも表情にも言葉にもそれが表れてしまっている。

 ああ、まったくもって騙るに落ちる。

「騙り部さん。どうか私を殺してください」

 質問ばかりでなかなか殺そうとしない僕にしびれをきらしたのか、西島がお願いしてくる。両手を大きく広げて、全てを受け入れる準備は済んでいると言いたげだ。その姿もまた美しい。僕がそう思うのは、きっと……。

 いや、もうやめよう。早く終わらせてあげよう。

 それが西島ふじみ、不死身のふじみ、彼女の最期の望みだから。

「西島さん。そこに座ってくれる?」

 僕は、もみじの木に背中を預けて座るよう伝える。彼女は黙ってそれに従う。

「今から君の心臓を刃物で突き刺す。ここは山奥だから人はいないけど、できるだけ声を出さないように気をつけてね。どうしても難しければタオルを噛んでもらうけど……」

「大丈夫です。痛みには慣れていますから」

 それは慣れているのではなく麻痺しているのではないか、と思ったが黙っておいた。たとえ悲鳴でも西島の最期の声を聞けるのは嬉しいと思ったことも黙っておいた。

「目を閉じて」

 西島はすぐに目を閉じた。そして数分後にはもう二度と開かなくなる。

 そう考えたら急に手足の震えが止まらなくなった。呼吸も浅く速く激しくなっていく。

 覚悟は決めた。勇気も出した。

 あとはもう……殺すだけなのに……。

「騙り部さん。死にたいという化物を生かしておくのは、殺すよりも残酷なことですよ?」

 目を閉じている西島には、僕の姿が見えていないはずだ。それなのに彼女は、全てお見通しと言わんばかりに的確な言葉を投げかけてくる。

「ありがとう。西島さん」

 おかげで手足の震えが止まった。本当に彼女には、何度も助けられてばかりだ。

「騙り部さん。最期に一つだけお願いがあります」

「なに?」

「私の死体はもみじの木の下に深く埋めてください。化物の血を吸ってもみじの葉が真っ赤に染まるように。それで秋になったら……私のことを……思い出してください……」

 西島の目から何かがこぼれ落ちた。嘘ばかりついている彼女が流す真実の結晶。

 それなら僕も嘘をつかずに最期のお願いを……いや真実を言わせてもらおう。

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