プロローグ『引きこもりのヒーロー』
ヒイロが十歳の時に動画配信者の職業を与えられてから、五年の歳月が経過した。十五歳になった彼は、背が高くなり、黒い瞳と黒い髪の精悍な顔付きの男へと成長していた
「十五歳か……俺の同級生たちは学校に通っているんだよな」
ヒイロは窓の外を眺める。そこに映し出された光景は黄金色の麦畑で、そのすべてがアステール家の領地だ。領民たちは忙しく働いており、学生たちは通学路を楽しそうに歩いていた。
「学校の同級生たちは、俺のことを馬鹿にしているんだろうなぁ」
十歳までのヒイロは学校のヒーローだった。勉強も運動も誰にも負けたことがなく、しかもアステール家の嫡子なのだ。人気がでないはずがない。
しかし今のヒイロはどうだ。学校にも行かず、自室に引きこもり、窓の外を眺めて暮らす日々。人生の落伍者へと落ちた彼は、ヒーローどころか隠したくなるような汚点だった。
「俺、最低だな」
ヒイロは机に置かれた魔導書に目を通すが、職業補正のないヒイロでは魔法の腕は簡単に上達しない。剣の腕も同じだ。毎日部屋の中で剣を振ったが、どれだけ努力しても職業補正がなければ、得られる結果には天と地の差があった。
「こんなに努力しているのにっ」
成長補正は残酷だった。例えば下位職の剣士や魔法使いは剣術と魔術に十の成長補正が適用される。これは成長補正のない人間が十時間努力した結果を、剣士や魔法使いなら一時間で習得できることを意味した。
さらにこれが上位職ともなれば差はさらに大きく開く。剣豪や賢者は五十の成長補正が適用され、勇者ならば百の成長補正が与えられる。つまり勇者はヒイロの百時間分の努力をたった一時間で成果としてしまうのだ。
「うっ……っ……ごめんな、爺ちゃん。俺、期待に応えられそうにないや」
死ぬ間際まで自分に期待してくれた祖父を思い出し、ヒイロは魔導書にポタポタと涙を零す。そんな彼の部屋をノックする音が鳴る。
「誰だろ……クラリスさんかな」
クラリスとはアステール家の使用人として雇われているメイドの名である。毎日の食事や書物を彼のために運んできてくれる、部屋から出ない引きこもりにはなくてはならない存在だ。
「でもこのノックはクラリスさんらしくないな」
クラリスはいつも「ご飯、ここに置いておきますから」と言い残してそのまま立ち去る。できる使用人は主人であるヒイロが人と顔を合わせたくない気持ちを汲んでくれるのだ。
「お兄様、そこにいるのですか?」
ノックの主の優しげな声は聞き覚えがあった。ヒイロの義理の妹であり、勇者の職業に就いているリザである。
リザは魔法も剣術も勉学も容姿も、何一つとして欠点がなく、王国の次期将軍だと期待されている。ヒイロは次期当主の座もきっと彼女が継ぐに違いないと見なしており、彼のコンプレックスを刺激する存在だった。
「お兄様。十五歳の誕生日おめでとうございます」
「…………」
「皆がお兄様をお祝いするために待っていますよ」
「行かない……」
「お兄様……」
「俺はアステール家の失敗作だ。祝福される資格なんてない」
「そんなことありませんよ。皆、純粋に心配しているのですから……それにお父様が何やら伝えたいことがあるとか。凄く深刻そうな顔でしたよ」
「父さんが……」
まさか何か重い病気にでもかかったのではと、ヒイロは祖父のシルバが亡くなった時のことを思い出し、ゴクリと息を呑む。
「だが俺が部屋から出ると、皆が馬鹿にするだろ」
「誰も馬鹿になんてしませんよ……少なくとも私はしません。私、お兄様のことを尊敬していますから」
「…………」
「さぁ、出てきてください」
ヒイロは自室の扉の鍵を開け、ゆっくりと部屋の外に出る。そこには五年の時を経て成長した義妹のリザが待っていた。
大きく膨らんだ胸と優しさを象徴するような泣きボクロ。腰まである黒い髪と大きな瞳は、黒曜石を人にしたように輝かしく、リザは柔和な笑みを浮かべて、ヒイロが顔を出すのを待っていた。
「リザ……大きくなったな」
「お兄様こそ。背が高くなりましたね」
五年ぶりの再会にリザは感動の涙を目尻に浮かべる。この感動を両親とも共有したいと、彼女はヒイロの手を引く。
ヒイロはリザに連れられて、食卓へと辿りつくと、長い白テーブルの上座に両親が座り、その周囲を囲むように使用人たちが控えていた。
使用人たちは教育が行き届いているだけあり、長年顔を見せていなかったヒイロが現れても驚きを態度に出さない。しかし両親は「まさか本当に出てきてくれるとは」と喜びと驚愕で目を見開いていた。
「久しぶりだな、ヒイロ。元気にしていたか?」
「おかげさまでね。父さんの方こそ元気そうで何よりだ」
「だがまさか部屋から出てきてくれるとは思わなかったぞ」
「…………」
「急に黙られると父さん怖いんだが……」
ヒイロの父であるクルトは、禿頭と彫の深い顔、そして丸太のように膨らんだ二の腕が特徴的だった。彼は剣豪の職業に就き、アステール家を束ねてきた男で、祖父であるシルバほどではないにしろ、支持する者が多い有能な領主であった。しかし家族には甘く、巌のような強面が、助けを求めるように視線を泳がせていた。
「あなた、ヒイロさんが部屋から出てきてくれて良かったですね。これから家族みんなで仲良くしましょう」
「う、うむ。そうだな」
クルトを励ましたのは、ヒイロの母であるアニエスだった。元は王国の第三王女であり、その美しい容貌と賢者の職業のおかげで多くの男を虜にしたが、クルトに一目惚れをして電撃結婚を果たした。シルバ亡きアステール領を裏から支えてきた立役者の一人でもある。
「ヒイロさん。十五歳の誕生日おめでとう。母さん、あなたが立派に育ってくれて嬉しいわ」
「う、うむ。さすがは我らの子だ。立派に育ったものだ」
何が立派なモノかと、ヒイロは心の中で毒づく。自分が駄目人間であることを、彼は誰よりも自覚していた。
沈黙と共に食事を進める。食卓に並んだ料理は子羊の丸焼きや、川魚の刺身など、どれも目移りするほどに豪華だが、久しぶりに家族と共にする食事の気まずさが原因で味が分からなくなっていた。
「お兄様のためにケーキも用意したんですよ。一緒に食べましょう」
白いクリームの上に赤い果実が飾られたホールケーキが運ばれる。ヒイロは切り分けられたケーキを黙々と口の中に運ぶ。甘さが口いっぱいに広がった。
「そういえば大事な用事があると聞いたんだが……」
「おお、そうだったな……」
クルトは間を置くために一度咳き込むと、ヒイロをジッと見つめる。
「ヒイロ、来年でお前は十六歳になる。王国法に従えば立派な大人だ」
「そうだな」
「故に十六歳になった暁には、アステール家領主の座を譲ろうと思う」
「はぁ?」
予想の斜め上すぎる提案に、ヒイロは口をポカンと開ける。引きこもりに領主など務まるはずがない。
「お前はやればできる子だと私は信じている。いや、私だけではない。母さんもリザも使用人たちもお前が領主になることに賛成している」
「そんな馬鹿な……」
家族はともかく、引きこもりを新たな上司として支持する家臣などいるはずがない。だが使用人たちは皆が納得していると首をウンウンと縦に振る。
「実はな、引きこもっているお前がどんな生活を送っているのか、使用人のクラリスから聞いていた……太陽が昇ると共に剣を振り、月が消えるまで魔法の勉強をしていたんだよな」
ヒイロは動画配信者の職に就いているため、職業補正を受けることができない。しかし補正はなくとも努力すれば力は伸びる。その伸び幅は小さく、本職たちと比べると足元にも及ばないが、それでも無駄な努力ではない。
「私たちはヒイロが誰よりも努力していることを知っている。領地経営のための専門書を読んだり、窓の外から領地の様子を観察したりしていたことも知っている」
「…………」
「アステール家の英雄シルバは言った。この領地を任せられるのはヒイロしかいないと。私たち家族はその言葉を信じている」
クルトの期待の言葉にヒイロは胸を熱くする。彼は自分のことを落ちこぼれだと卑下してきたが、家族は誰一人として彼のことを見放していなかったのだ。
「うっ……っ……」
ヒイロは気づくと目尻から涙を零していた。ポロポロと頬を伝って零れた涙が、皿の上のケーキに落ちる。
「ありがとう、父さん。それに母さんとリザ、使用人の皆。俺のことを見捨てないでいてくれてありがとう。必ず立派な領主になってみせる」
「さすがは我が息子。その意気だ」
「それを言うなら私の息子です」
「いえいえ、私のお兄様ですよ」
ヒイロが次期領主となることに、皆が拍手で喝采する。彼は期待に応えるべく覚悟を決める。
「俺は領主になるまでの一年間、無駄に過ごすつもりはない。皆の想像を超えた偉大な男になってやる……手始めにアイチューバーとして成功してみせる」
「そうだぞ。アイチューバーとして成功を……アイチューバーってなんだ?」
皆が頭の上に疑問符を浮かべ、ポカンと口を開く。ヒロトの異世界での動画配信者生活はここからスタートしたのだった。
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