こぼれる緋

一六八(いろは)

1-1


年の瀬の深夜、暖房も入れぬままベッドになだれ込んだのは長い間の約束を未だに心のうちに閉じ込めていたから。エアコンもストーブも入れぬままひんやりとした空気の中、お互いの熱を分かち合う二人は、何よりもその熱だけが確かだった。青空はやがて陰り、光る太陽は濃く深く色を変え、赤い夕陽が落ち始める。それは二人の行く末を暗示しているかのようだった。

隼也と私は幼馴染だった。いつでも私達は側にいた。幼い頃から結婚を誓いあい、お互いがそれを本気にして、年頃になって見事に両想いとなった。はずだった。

私には、親が勝手に決めた許嫁がいる。その人と私は、年内に婚姻届を出す予定だ。

私は馬鹿だった。隼也が大学院生でアメリカに留学していた間とはいえ、私の1番好きな人は隼也であると意思を貫かなかったせいで、勝手に縁談話が進んでしまったのだ。向こうの許嫁は半ば無理矢理私を「娶る」事にしたと言っていい。私は、当然反抗した。あり得ないと憤りながら、隼也にテレビ電話でその旨を伝えた。しかし、隼也は悲しそうに笑って「お幸せに」と言って、通話を切った。

それから、私と隼也は一切顔を合わせなかった。知ろうと思えば、会おうと思えば会える距離に私達はいた。しかし、そうしなかった。会えば、何かが壊れて心の濁流が氾濫してくるような、そんな気がしていたのだ。それはきっと、隼也も同じだった事だろう。これでいいんだ、心に何度も何度も嘘をついて、私はもうすぐ偽りの挙式を挙げる。それだけの日々だったのに。

私達は出逢ってしまった。今まで意識して回避し、連絡手段を全て絶ち、似た背中を見れば振り返って逆向きに歩き出す。そんな不毛な努力を重ねてきたというのに。そんな、歪な塔は真正面から向かい合った時に全てもろく崩れ去る。

私の職場に、仕事で隼也は訪れたのだ。都内の大型オフィスビルの受付嬢である「神崎花織」の前に、若手営業マンの「山中隼也」は、かくも運命的に現れてしまった。目があったその瞬間、私は隼也を認識し、隼也は私を認識した。それが全てだった。

「神崎さん」

商談を終えて、エレベーターから出てきただろう隼也が私に話しかける。

はい、如何なさいましたか、と形式張った返答しか返せないのは、隼也を前にしてきっと誰よりも緊張しているからだ。すると、隼也はきっぱりと私にこう告げた。

「待ってます」

そう言って、オフィスビルの1階にあるチェーン店のカフェへと隼也は消えていった。私は、その姿を焦点の定まらないぼうっとした気持ちで見つめていた。私を取り巻く全てが夢うつつのような、そんな気がしてならなかった。年の瀬の夕暮れ時、帰宅ラッシュ前のビジネス街はいつも以上にザワザワと賑やかで、私は心地よい疲労感と達成感の中、言葉に出来ないような喜びを噛み締めていた。


定時の午後6時がやってきて会社のロッカーに制服を投げ入れた後、私はもう「オフィスビルの受付嬢」ではなかった。この身で風を切るようにして、職場の自動ドアをくぐると、1階のカフェへとたどり着く。チェーン店のカフェは年末と同時にクリスマスシーズンとあって、赤と緑の装飾で彩られていた。トナカイやひげもじゃの老人のぬいぐるみがレジの横に鎮座しており、店内には愉快なクリスマスソングが流れている。そんな店内を見渡すと、奥の二人席に彼がいた。隼也だ。

「隼也」

声をかけて席に近づくと、隼也はパッと顔を上げた。すると、隼也は表情をほころばせて、静かに笑った。


それから私達は静かに話し始めた。久々の対面に不自然な会話が展開されるのではないかと心配していたが、やはり隼也と私は長い時間を共にしてきた幼馴染である事を痛感する。仕事の事、家族の事、友達の事、最近の出来事。たくさんの事柄を、隼也と共有した。再開した嬉しさに時間も忘れて話し込んでしまったので、ふと腕時計を見た時には23時を過ぎていた。

腕時計をちらと見た私を、隼也は黙ってじっと見ていた。何も言わなかった。その時、私の記憶の中にあの時と同じ痛みが走った。理不尽な許嫁に憤って、隼也に幸せを願われた、あの苦い痛みが。私がこのまま帰路についても、そこには偽りの婚姻しか待っていないだろう。臆病な私は、その空虚な婚姻届けを破り捨てる代わりに、テーブルに乗せられた隼也の暖かな手をそっと握った。それはまるで、まだ言葉を知らない、小さな子供の祈りの様だった。


小さなビジネスホテルの一室。明かりも暖房もつけないまま、どちらがと言い出す前に早急に抱き合う。背後から漏れる光と扉が閉まる音が、二人の間に優しく響いた。

「かおり、」

隼也が私の名前をそっと宙へなぞる。それは迷子の子供が、やっと知っている人に出会った時の様な、儚げなものだった。

「会いたかった」

私が、その続きを埋める。暗闇で表情を把握することは難しいけれど、きっと泣きそうな顔をしているに違いない。私も泣いてしまいそうに嬉しいのを、懸命に堪えているのだから。

隼也は、私の発言に答える代わりに、静かに私を抱きしめた。布と布が擦れる音が、部屋中に乱反射して、もしかして私達はこの世界に二人ぼっちになってしまったんじゃないかとすら思えた。私にはその静寂が、どうしようもなく愛おしく感じられた。

そっと隼也の背中に手を伸ばす。深夜の静寂に包まれ暗室の中で、お互いの体のぬくもりと体の奥から聞こえて来るわずかな、しかしそれでいて熱を持った甘い鼓動だけが光よりも確かだった。

そして、時計の秒針が日付を超える頃、閉ざされた闇の中で二人は、静かに約束した出来事を果たすかの様に口付けた。


ベッドの上で二人は、溢れる感情が一つもこぼれ落ちることがない様に、慎重に壊れない様に体に触れあった。衣服の上からもはっきりと感じたその熱は、服という薄い膜を廃する事で、より一層強いものに感じられる。隼也は私の体を触りながら、優しく唇を重ねている。身をよじりながらその感覚を追っていると、隼也の唇が離される。お互いの唾液で濡れてつやつやとほのかに光る唇に、銀の糸が細く伸びた。しばらく見つめあった後、隼也は、眉をひそめながら言った。

「浮気、だね」

その言葉に続けて、ごめんね、と告げようとしただろう隼也の言葉を遮って私は隼也の耳元でこう囁く。

「私、本気だもの。浮気じゃないわ」

その瞬間、一切の光のない暗闇の中でもくっきりと分かるほどに、隼也の体温が上昇するのが感じられた。私は、隼也の頬に手を添える。上気した頬は今この瞬間、私だけのものだ。

「証を刻んでも、いい?」

いいよ、と掠れた声でわたしが頷くと、隼也は――

肩と首の間に隼也の頭が潜り込んできた時、私はそのあとの行為を察した。と、同時に首筋に甘く鈍い痛みが走る。

「かおりは、僕のものだから」

隼也は私の首筋に、歯型がつくぐらいの力で噛み付いてきたのだ。あと2、3日すれば内出血をおこしてこの歯型はやがて、青あざになってしまうだろう。当然、首筋を出す服装をしていれば許嫁に事の顛末を説い詰められる。客観的に世間はこの行為を「浮気」と呼ぶのだろうが、私にはどうでもよかった。愛する者と結ばれない、偽りの人生に一体何の価値があるというのだろうか。

「しゅんやも、ね」

世界の全てがしんと寝静まった中で、私達だけが溶け合う様に笑っていた。

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こぼれる緋 一六八(いろは) @yukkuri0115

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