Set list 3-2

 家に辿り着くと、もう夜中の十一時だった。車庫に車がないところを見ると、父はまだ会社から帰っていない。けれど、家の明かりは消えているから、母はさっさと寝てしまっているようだ。音を立てないように玄関を開け、こっそりと二階の自室へと入る。

 開けっ放しの窓から、街灯の明かりが部屋の中をぼんやりと照らしていた。僕は電気をつけずに、そのままベッドへと倒れこむ。

 ぼふっと受け止めてくれるはずの布団が『ぐはっ』と不可解な悲鳴をあげた。

 この違和感……慌てて布団を剝ぐ。

「いやーん、いきなり布団めくるなんてエッチ」

 そこには裏声を出してニヤニヤと笑うカズさんがいた。服の上から胸を両手で隠す仕草がイラッとする。

「ちょっ──何でいるんですか?」

 僕は思わず大声を出しかけ、すんでのところで飲み込み小声を出す。

「何って、鈴谷くんに会いに来たんだよ」

 あっけらかんとしてるけど、この人、今どういう状況なのか分かっているのだろうか。

「どっから入ったんですか」

 極力小さな声で聞く。

「窓に決まってんじゃん。開いてたから入った」

「ケロリとした顔で言わないでください。不法侵入ですよ?」

「えー、細かいことは気にしなーい」

 カズさんは僕から布団を奪うと、再び布団に潜ってしまう。

「細かいことじゃないし、法律です。気にしてください」

 僕は力任せに布団を引っ張る。するとカズさんも負けじと布団にしがみつく。

 しばし布団の綱引きをした後、カズさんがふっと諦めたように布団から手を離した。

「さっきさ、鈴谷くんの機嫌損ねたって、順に電話で泣きつかれた……それに比べたら、細かいことだよ」

 それって、つまりは、既に順さんと話したってことではないか。

「まさか……ですけど、見つかったら警察呼ばれるって、知ってて来たんですか?」

 僕は布団を抱えて、固まってしまう。

「まーね。メンバーに頼られたら、リーダーとして何とかしたいじゃん」

「メ、メンバーのためなら、警察に捕まってもいいと?」

 思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

「いいよ」

 カズさんは潔かった。常識的に考えて、警察に捕まっていいはずがないのに。

 諦めの境地だった。この人には敵わない。

 でも同時に、この人のもとでなら、外の世界に踏み出せるかもしれないとも思った。

「カズさん。僕はバンドに入るつもりはなかったけど、さっき順さんと話してて、本当はちょっと心が揺れました」

「マジで? なんだよ、順のやつ、意外と良い仕事してんじゃん」

 その通りだ。順さんの説得がなかったら、きっとこの選択はしなかったから。

「少なくとも、カズさんのストーカー行為よりは、よっぽど効果があったと思いますよ」

「ひどーい」

 カズさんはベッドの上でゴロゴロと転がる。

「僕なんかで、本当に良いんですか?」

 床に正座し、ベッドの上のカズさんを見る。すると、寝そべったままだったカズさんが起き上がり、胡座の姿勢になった。自然と僕の視線は見上げる形となる。

「違う、良くない」

 思わぬ返答に、僕はポカンと口を開けてしまう。

「俺は、鈴谷くん『だから』欲しいんだ」

 ギシッと家鳴りがした。静かだから妙に響く。

「俺んとこ来てよ」

 カズさんの真剣な眼差しに、僕は覚悟を決めた。

 順さんの説得あってこそだけど、決定打はこの人の、非常識なまでの情熱だ。

「分かりました。僕やりま──」

 その時だ。

 僕の言葉を断ち切るように、乱暴に部屋のドアが開いた。

「ヤっちゃ駄目よ、陸。目を覚ましなさい!」

 声とともに部屋の電気がついた。ドアの横には、パジャマ姿の母が立っている。明るさに目を細めながら見ると、母の顔は般若のようになっていた。

「まさか、まさかまさか。こんな展開って……お隣さんが言ってたことなんて、冗談としか思ってなかったのに。でも、学校に行けず、引きこもっていたのも、実はそれが理由だったの? セクシャルマイノリティーだから? あぁ、そんなことって。ただでさえ、音に敏感で普通に過ごせないのに」

 母が頭を抱えて、喋り続けている。

 その不穏な独り言を遮ったのは、カズさんだった。

「こんばんは。いっつもうるさく押しかけてすいません。なんだか非常に混乱されているようですが、やっと鈴谷くんの気持ちが変わったんです。どうか応援してくれませんか?」

 カズさんが頭を下げる。

「おおおうえん? まさか、自分の息子がそんなことになるなんて。ともかく警察を……」

 母の様子に、嫌な予感がした。さっき、マイノリティーとか聞こえた気がするし。もしや、僕とカズさんが恋仲だと勘違いしてる?

「母さん、警察は待って。あと、誤解してるんじゃない? カズさんは──」

「してないわ!」

 母の剣幕に押され、僕は言葉を飲み込んだ。

 母はチラチラとベッドを見ては、目をそらしている。ベッドの上はカズさんが転がったせいで、シーツがこれでもかと乱れていた。不健全なことは何もないが、見ようによっては、淫らな行為を連想してもおかしくない……かもしれない?

「確か赤塚くん、だったかしら。陸をたぶらかすのはやめなさい」

「たぶらかすって、そんな人聞きの悪い」

 カズさんは眉を寄せた。

「陸は、あなたには渡さないから」

「それは困ります。俺は本気で鈴谷くんが欲しいから、毎日通ってたんですよ?」

「ほ、ほんき……なの?」

 母がよろりと一歩下がった。

「当然です。俺は鈴谷くんじゃなきゃ嫌です」

 何だこれ。考えてることはすれ違ってるはずなのに、会話が妙に成り立ってるんですけど。

 僕は母の誤解を解きたいけれど、なかなか二人の会話に割り込むことが出来ない。

「ただでさえ……まともに学校すら通えない子なのに、そんな茨の道は無理よ」

「確かに厳しい道ではあります。でも、引きこもっていた鈴谷くんが、前を向いたんですよ? もっと親として喜んであげてもいいんじゃないですか」

 カズさんは引くことなく言い返す。すると、母の顔色が、怒りのせいかどんどん赤くなった。

「簡単に言わないで! 陸がどれだけ普通じゃないか知ってるの?」

「普通じゃないかは別として、鈴谷くんがすごいってことは知ってますよ」

 カズさんは当然だという表情を浮かべている。

「赤の他人に何が分かるっていうの。陸は他の子が普通に出来ることが何も出来ないのよ。ただ座って授業を受けることすら無理だった。音のせいですぐ気分を悪くするし、ビクビクして怯えるし。陰気な性格のせいでクラスからは爪弾きにされて、友達の一人も出来なかった!」

 母の甲高い声は、びりびりと僕の頭に突き刺さるような痛みをもたらす。でも僕は、頭が痛いのか心が痛いのか、もう分からなかった。

「陸のせいで私の人生、台無しよ。多くを望んでたわけじゃないのに。普通に生活できて、普通に学校へ通って、普通に……ただ普通に成長してくれればそれで良かったのに。その唯一の願いさえ叶わなかった。これ以上、普通じゃないことを重ねないで。恥ずかしいわ!」

 母がここまでヒステリックに叫ぶのは初めてだった。

 恥ずかしいと、母はよく言う。もう口癖みたいなものだと、どこか流して考えるようにしていた。だって、深く考えたら立ち直れないから。でも、母がここまで僕のせいで追い詰められていたなんて知らなかった。

 せっかく産んだのに、僕みたいな子供で、ごめんなさい。

 気付いたら涙がこぼれていた。

「おばさん、言いたいことはそれだけ?」

 途中から黙って聞いていたカズさんが、硬い声を出した。

「それだけって、あなたね──」

 カズさんはベッドから降りると、母の言葉を遮るように話し出す。

「おばさんは鈴谷くんのこと恥ずかしいの? 俺は、全然恥ずかしいなんて思わない」

「そ、それは、あなたが他人だから」

 少し狼狽えたように、母の視線が泳ぐ。

「違うよ。俺は鈴谷くんが弱っちくて、手がかかることを知ってるけど、それが恥ずかしいことだなんて思わない。俺は恥ずかしいって言ってるおばさんの方が恥ずかしいと思う」

「な、なにいって……」

「おばさん、俺に鈴谷くんちょうだいよ。おばさんにとっては恥ずかしい存在なんでしょ? でも俺にとっては、喉から手が出るほど欲しい存在なんだ」

 要らないならちょうだいと、カズさんは母に向けて手を差し出す。母は、そんなカズさんを不気味そうに見て、じりじりと後ずさった。

「な、なんなのよ。陸なんて、一緒にいても手がかかるだけよ。どうせすぐに重荷になるわ」

 狼狽えながらも、母は反論を止めない。

「俺は鈴谷くんがいれば、どこまでも上を目指せるって思ってる。分かる? 上に行くために必要なんだ。重荷になんてなるはずがない」

 カズさんが驚くほど冷静に、しかし妙な圧を持って母に言い迫る。

「で、でも、この子は──」

 母の言葉を断ち切るように、カズさんはため息をついた。

「もういいです。鈴谷くんはしばらく俺が預かります。この家には置いとけない。おばさんは少しクールダウンした方がいい」

 そう言うと、カズさんは母を押しのけた。

「ちゃんと連絡はさせますから」

 カズさんに腕をぐいっと引っ張られ、母の横を通り過ぎる。

「ちょっと、待ちなさい! そんな勝手な──」

 母の叫ぶ声が突き刺さったが、母の手が僕に触れることはなかった。


 玄関から出ると、カズさんは庭の方へ行きスニーカーを持ってきた。もぞもぞと履き終えると、そのまま頭を抱えて座り込んでしまう。

「あー、完全に言いすぎた。ごめん、鈴谷くん。家出みたいなことになっちゃった」

 あんだけ堂々と啖呵切ったくせに、突如弱気になったカズさんに笑えてきた。

 僕らは住宅街を、駅に向かって歩き出す。

「カズさん……あの、ありがとうございます」

「ありがとうって、思ってくれるの?」

 カズさんの問いかけに、僕は立ち止まり、ゆっくりと頷く。

「母の気持ちは分かるんです。僕みたいな息子で申し訳ないとも思ってます。でも、やっぱり否定されるのは……つらい、から」

 言っているうちに、声が震えてきた。何でだろうと思っていると、カズさんの指が僕の頰に触れる。そして、すっと指が動いた。その感触で、僕は泣いていたことに気づいた。

「誰だって否定されればつらいよ。鈴谷くんのその気持ちは『普通』だから」

 カズさんの声は、優しい風を運んでくる。

 しばらく無言で歩いた。今夜は月が明るい。

「鈴谷くんはさ、どうしてベースを弾いてるの?」

 カズさんが足を止めて、尋ねてきた。

「ほら、一緒に音楽やってたおじいさんが亡くなって、一人になっちゃったわけじゃんか。やめてもおかしくないのに、鈴谷くんはベースを弾き続けてるから」

 僕は、じいちゃんの顔を思い浮かべる。じいちゃんは笑っていた。

「……ざっくり言ってしまえば、安心させるため、ですかね」

「安心?」

 カズさんが不思議そうに首を傾げる。

「じいちゃんが亡くなる間際、僕に言ったんです。『どこにいても聴いてるから。陸が元気だって音を、じいちゃんに届けろよ』って。だから、僕はじいちゃんの為に弾いてるんです」

「そっか。おじいさんは、鈴谷くんが音楽を続けることを望んだんだな。だから鈴谷くんは墓の前でベースを弾いてたし、そのおかげで俺は鈴谷くんに出会えた。俺、鈴谷くんのおじいさんに感謝しないとなぁ」

 カズさんは夜空を見上げた。つられるように、僕も見上げる。

「俺さ、鈴谷くんに似てるよ」

「えっ?」

 似てる要素がこれっぽっちも思い浮かばないのだが。

「俺もさ、弟のために歌ってるんだ」

 カズさんは微笑んでいたが、なんだか泣きそうだ。

「俺の弟、二年前に亡くなってるんだ」

 ふいに、月明かりが消える。雲がかかったのだ。

「鈴谷くんに初めて会ったとき、実は弟の墓参りしてたんだ。昼間はバイトとかで忙しいから、いつも夜中になっちゃうんだけどね」

「ちゃんと理由があったんですね。夜に墓地にいるなんて、変な人だなって思ってたんです」

「えー、ひどい。夜に墓の前でベース弾いてた鈴谷くんに言われたくないなぁ」

「で、ですよね」

 当然の反論すぎて、苦笑いで誤魔化す。

「亡くした弟ね、俺がバンドで歌うのをすんげぇ応援してくれてたの。いつもさ、目を輝かせてライブに来てくれてた。だから、弟が憧れてた姿であり続けたいし、弟が夢見てくれた未来を叶えたいんだ」

「未来、ですか?」

「そ、でっかい夢が詰まった未来。クライズシンドロームがメジャーデビューして、たくさんのファンがいて、ぎゅうぎゅうの武道館で、俺達がライブしてるって未来!」

 カズさんは夜空に向かって、拳を突き上げた。

 なんだか、その光景が目に浮かぶようだ。大勢のファンの熱狂に向けて、カズさんが拳を突き上げている様子が。僕も、そんな未来を見てみたい。

「俺らって、性格も外見の雰囲気も正反対だけどさ、意外と似てるかもな」

 カズさんはそう言って、僕に笑いかける。

 そうか。うん、そうかもしれない。ほとんどのことは正反対だけれど、唯一、音楽をやる理由だけが似ている。でも、この理由が一番重要な気がした。

 漠然と、この人の側でなら、一人きりじゃない音楽が出来るんじゃないかって。

「てことで、鈴谷くん。なんか有耶無耶な感じで家出ちゃったけどさ、その……」

 カズさんらしくなく、もぞもぞと言い淀む。

「なんつーか、俺は、未来を現実にするため、クライズシンドロームと心中する意気込みで音楽やってる。んで、鈴谷くんがメンバーとして欲しい。だから──」

 カズさんはまっすぐに僕を見た。その視線の強さに圧倒される。


「クライズシンドロームと、駆け落ちしてくれませんか」


 カズさんの言葉に、母が聞いたらさらに誤解されるなぁとぼんやり思う。けれど『駆け落ち』という表現が、なんだか今の状況にピッタリな気がした。

 僕は、外敵から身を守る家から、母の制止を振り切って外に出ようとしている。クライズシンドロームというバンドと共に、歩もうとしているのだから。

 僕は一歩、カズさんに近寄り見上げる。

「家には戻りづらいし、その、仕方ないので、駆け落ちしてもいいですよ」

 ツンデレなヒロインの台詞みたいなことを言ってしまった。ちょっと恥ずかしい。でもまぁ、カズさんは嬉しそうに小躍りしているからいいか。

「本当に? バンドに入ってくれるってこと?」

 僕は素直に頷く。

 すると、カズさんは満面の笑みを浮かべて、両手を広げた。

「クライズシンドロームへようこそ、陸」

 月が雲から姿を現す。やわらかい光が、僕らに降りかかった。


 ※ ※ ※


【『カズくんシンドローム』を始めるよ! 実はね、ビッグニュースがあるんだぁ】

 唐突に始まったというのに、動画の視聴人数がどんどん増えていく。

【今日は夜遅いんで、陽は来れなかったんだけど。そうそう、明日も学校あるからね。なので、順だけです。今はね】

 カズはニヤニヤと笑っている。逆に順は表情が硬く、落ち着きもない。

【カズ、本当に大丈夫なのか? けいさ……アレ呼ばれたりしないか?】

【大丈夫だって。みんな何があったのか気になってるみたいだね。おぉ、正解の人いるよ!】

 流れていくコメントの中に正解があったのか、カズは手を叩いた。

【実はね……いや、もうちょっと後にする? 焦らしプレイも楽しいでしょ?】

【いいから早く言え。いや……そもそも生配信なんかしてる場合なのか?】

 順はさらに顔色を悪くしながら、頭を抱え込んだ。

【順はビビりすぎ! はい、発表するから、みんな心して聞くように】

 カズの言葉に、コメントが期待し始める。

【実は琵琶法師こと陸くんを、さらってきちゃいました!】

 てへっと、カズは舌を出した。

 コメントが山ほど流れてくるかと思いきや、理解が追いつかないのかコメントが止む。

【アホか! てへ、じゃないだろ。何でもっと穏便に連れて来れないんだよ……あーこいつに頼った俺が間違いだった】

 順のツッコミを受けて、本当にさらってきたのだと理解した視聴者が荒ぶりだす。

「メンバーげっとおめ!」といった祝福から「マジで強硬手段とりやがった」というものまで様々だ。

【やっと新メンバーが加入して、俺らの目指す音楽が届けられる。ん? 陸を出せって? さらってきたならそこにいるんだろうと……流石だね、みんなの推理力には脱帽するよ】

 ニシシと、カズは歯を見せて笑う。

 ふいに、動画の左上にジャージを穿いた足が映った。ジャージの裾がかなり余り、踵で踏んづけている。

 すると、カズの視線が画面から外れ、ジャージの人物へと移った。

【やっと風呂出た? 暇だから動画配信始めちゃったよぉ】

【動画……配信? も、もしかして……今、配信してるんですか?】

 腰を抜かさんばかりの、怯えた声がした。

「新メンバー?」「てか風呂てww」「さらって風呂入れて次は何すんの?」と、コメントがどんどん怪しい方向へと盛り上がっていく。

【そうそう、陸もせっかくだからみんなに挨拶!】

【むむむむりです!】

 陸らしき人物が慌てて逃げようとする。しかし、余りまくっていたジャージの裾を、カズが容赦なく摑んだ。当然、逃げようとした人物は倒れる。

【や、やめてください。カズさんのジャージゆるゆるだから脱げ……】

【確保! みんな、このパンツ見えかけてる少年が、うちのベースだよ。ほら陸。挨拶して】

 カズにがっちり後ろから抱きかかえられ、哀れにもがく陸が映る。

【ええ? こ、こここんな格好で、挨拶とか無理です。お、お願いですから放して】

 顔を真っ赤にして、涙目になる陸を見て、コメントがさらに荒ぶっていく。

「可愛い」「ヤバイ萌える」「そのまま続けてOK」

 すると、横で暴れる二人を眺めていた順がため息をついた。

【あぁ、グダグダじゃん。ごめんね、みんな。もう今日の配信はここまで。また気が向いた時にカズがやるだろうから、見てやって。じゃあおやすみ。カズ、いい加減に……】

 順の呆れた声がおやすみを告げると、プツリと配信は終了したのだった。

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