3

 てん麩羅ぷらを食べられる店は、近くに一軒しかなかった。スマートフォンの地図案内に従うと、目の前には立派な料亭が建っていた。

「来たことある?」

 野上が尋ねると、結衣は首を横に振った。それから、来てみたいとは思ってた、と答えた。

 料亭の戸を引くと、質の良い油の匂いが鼻をくすぐった。まだ昼前ということもあり店内は比較的空いていたので、二人は適当なテーブル席に腰を下ろす。それからしばらくして、店員が水を運んできた。

「ご注文はお決まりですか?」

「私は天麩羅定食で」

「じゃあ、俺は刺身定食で」

 店員は注文を確認すると、店の奥へと消えていった。

「ちょっと高そうなお店ですね」

 結衣は、密やかな声でそう言った。野上はそれに同意するように頷く。

 定食が運ばれてくると、結衣はそれをスマートフォンで何枚か写真に収め、それからようやく箸を持った。

「ブログとかに載せるの?」

「うん。あとは、記念としてもかな。こんなの滅多に食べられないし」

「言ってくれれば、いつでもご馳走するよ」

「ほんと?」

「うん。高給取りじゃないから、頻繁には無理だけど」

 そう言って野上は自嘲しながら、仕事も忙しいし、ともっともらしい理由を付け加えた。

「そういえば、野上さんっておいくつでしたっけ?」

 ふいに、結衣が尋ねた。

「俺? 二十五だよ」

「付き合ってる人とか、いないんですか?」

「いないよ。そもそも出会いがないからね」

「ふうん、そうなんだ。もったいない」

「そういえば、さっきの話に戻るけど、大学生のとき付き合ってた相手に、みんなに優しいから、て理由で振られたこともあったよ」

 野上は話しながら、こんな若い子を相手に何を言っているのだろうと情けなくなった。しかしそんなことを気に留める様子もなく、結衣は真面目に会話を続ける。

「そりゃあ当然ですよ。私だって、彼氏がみんなに優しいと寂しいし、嫉妬しちゃいますから」

「でもリカコは『みんなに優しい野上くんが好き』とか言ってたんだぜ?」

「リカコさんっていうんですね」

 指摘されて、野上は自分が無意識にその名前を口走っていたことに気付く。

「付き合っていくうちに、独占欲というか、そういうのが芽生えてきたんだと思います」

「独占欲かあ。俺、嫉妬とかも全くしないし、いまいち共感できないんだよな」

「野上さんは、きっとまだ本気で恋愛したことないんですよ」

 結衣の言葉に、野上は何も返すことができなかった。

 つかの間の沈黙の中、結衣が天麩羅をかじる音だけが妙に大きく聞こえた。

「野上さん」

 あらためて名前を呼ばれ思わず顔を上げると、結衣はテーブルに置かれた野上のスマートフォンを指差していた。

「電話。ずっと鳴ってるよ」

「ほんとだ。ありがとう、気付かなかった」

 そう言って、画面を確認する。登録していない番号からだったが、野上は結衣に断って電話に出た。

「もしもし、野上くん?」

 その声を聞いて、野上は後悔する。

「何の用だよ」

「ちょっと、話したいことがあって。今日って時間あったりする?」

「悪いけど、明日にしてくれ。今日は俺、忙しいんだ」

「でも、そしたら仕事終わりとかになっちゃうんでしょう?」

「べつに問題ないだろ。じゃ、また連絡するから」

 そう言って、野上は一方的に電話を切った。その様子を、結衣は心配そうな表情で見ていた。

「リカコさん?」

 結衣の勘は、驚くほど鋭かった。野上が頷くと、やっぱりね、と言って笑った。

「野上さん。私、もう帰るよ」

「え?」

「もう食べ終わっちゃったし、ちょうどよかった。お代は奢られてあげる」

 そう言うと、結衣は、ごちそうさまでした、と手を合わせて席を立った。

「マジで帰っちゃうの?」

「うん、マジで帰っちゃうよ」

 野上の問いに笑顔で答えると、結衣はくるりと背を向けた。けれどすぐに何かを思い出したかのように、こちらを振り返る。

「ねえ、野上さん」

「なんだ?」

「パパ活って、知ってる?」

「ぱぱかつ?」

 聞き慣れない単語に、野上はただそれを鸚鵡おうむがえしすることしかできなかった。

「知らないなら、いいや」

 そう言うと、結衣は最後に礼だけ告げて、そのまま本当に帰ってしまった。

 一人だけ取り残されている状況をなんとなく惨めに感じ、野上は刺身を胃の中へ一気に流し込むと、逃げるように店を出た。

『今日はありがとう、ご馳走様でした。』

 リカコに電話をかけようとスマートフォンを見ると、ロック画面にそんな通知が届いていた。優しいのは、俺じゃなくて君のほうだ。そう思いながら、野上は着信履歴から先ほどの番号を選択し、発信ボタンを押した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る