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「来たことある?」
野上が尋ねると、結衣は首を横に振った。それから、来てみたいとは思ってた、と答えた。
料亭の戸を引くと、質の良い油の匂いが鼻をくすぐった。まだ昼前ということもあり店内は比較的空いていたので、二人は適当なテーブル席に腰を下ろす。それからしばらくして、店員が水を運んできた。
「ご注文はお決まりですか?」
「私は天麩羅定食で」
「じゃあ、俺は刺身定食で」
店員は注文を確認すると、店の奥へと消えていった。
「ちょっと高そうなお店ですね」
結衣は、密やかな声でそう言った。野上はそれに同意するように頷く。
定食が運ばれてくると、結衣はそれをスマートフォンで何枚か写真に収め、それからようやく箸を持った。
「ブログとかに載せるの?」
「うん。あとは、記念としてもかな。こんなの滅多に食べられないし」
「言ってくれれば、いつでもご馳走するよ」
「ほんと?」
「うん。高給取りじゃないから、頻繁には無理だけど」
そう言って野上は自嘲しながら、仕事も忙しいし、ともっともらしい理由を付け加えた。
「そういえば、野上さんっておいくつでしたっけ?」
ふいに、結衣が尋ねた。
「俺? 二十五だよ」
「付き合ってる人とか、いないんですか?」
「いないよ。そもそも出会いがないからね」
「ふうん、そうなんだ。もったいない」
「そういえば、さっきの話に戻るけど、大学生のとき付き合ってた相手に、みんなに優しいから、て理由で振られたこともあったよ」
野上は話しながら、こんな若い子を相手に何を言っているのだろうと情けなくなった。しかしそんなことを気に留める様子もなく、結衣は真面目に会話を続ける。
「そりゃあ当然ですよ。私だって、彼氏がみんなに優しいと寂しいし、嫉妬しちゃいますから」
「でもリカコは『みんなに優しい野上くんが好き』とか言ってたんだぜ?」
「リカコさんっていうんですね」
指摘されて、野上は自分が無意識にその名前を口走っていたことに気付く。
「付き合っていくうちに、独占欲というか、そういうのが芽生えてきたんだと思います」
「独占欲かあ。俺、嫉妬とかも全くしないし、いまいち共感できないんだよな」
「野上さんは、きっとまだ本気で恋愛したことないんですよ」
結衣の言葉に、野上は何も返すことができなかった。
つかの間の沈黙の中、結衣が天麩羅を
「野上さん」
あらためて名前を呼ばれ思わず顔を上げると、結衣はテーブルに置かれた野上のスマートフォンを指差していた。
「電話。ずっと鳴ってるよ」
「ほんとだ。ありがとう、気付かなかった」
そう言って、画面を確認する。登録していない番号からだったが、野上は結衣に断って電話に出た。
「もしもし、野上くん?」
その声を聞いて、野上は後悔する。
「何の用だよ」
「ちょっと、話したいことがあって。今日って時間あったりする?」
「悪いけど、明日にしてくれ。今日は俺、忙しいんだ」
「でも、そしたら仕事終わりとかになっちゃうんでしょう?」
「べつに問題ないだろ。じゃ、また連絡するから」
そう言って、野上は一方的に電話を切った。その様子を、結衣は心配そうな表情で見ていた。
「リカコさん?」
結衣の勘は、驚くほど鋭かった。野上が頷くと、やっぱりね、と言って笑った。
「野上さん。私、もう帰るよ」
「え?」
「もう食べ終わっちゃったし、ちょうどよかった。お代は奢られてあげる」
そう言うと、結衣は、ごちそうさまでした、と手を合わせて席を立った。
「マジで帰っちゃうの?」
「うん、マジで帰っちゃうよ」
野上の問いに笑顔で答えると、結衣はくるりと背を向けた。けれどすぐに何かを思い出したかのように、こちらを振り返る。
「ねえ、野上さん」
「なんだ?」
「パパ活って、知ってる?」
「ぱぱかつ?」
聞き慣れない単語に、野上はただそれを
「知らないなら、いいや」
そう言うと、結衣は最後に礼だけ告げて、そのまま本当に帰ってしまった。
一人だけ取り残されている状況をなんとなく惨めに感じ、野上は刺身を胃の中へ一気に流し込むと、逃げるように店を出た。
『今日はありがとう、ご馳走様でした。』
リカコに電話をかけようとスマートフォンを見ると、ロック画面にそんな通知が届いていた。優しいのは、俺じゃなくて君のほうだ。そう思いながら、野上は着信履歴から先ほどの番号を選択し、発信ボタンを押した。
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