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駅近くの喫茶店で、
野上が店に入ると、彼女はすぐにこちらに気が付き、すこし困ったような笑みを浮かべて軽く手を振った。野上は近くにいた店員に紅茶を注文すると、リカコの元へと歩み寄り、目の前の席に座った。
「今日は忙しいんじゃなかったの」
探るような視線を向けながら、リカコが尋ねた。
「たまたま、予定より早く用事が片付いただけだよ。まあ、面倒なことを先延ばしにしたくなかったのもあるけど」
「そうやって憎まれ口を叩くのは、相変わらずみたいね」
それはお互い様だろ、という言葉を、野上は運ばれてきた紅茶とともに押し流した。
「紅茶なんて飲むようになったんだ」
「悪いかよ」
「べつに。ただ、野上くんも変わったなあと思っただけ」
「そりゃあな。もう昔の俺とは違うんだ。だから寄りを戻そうとか、そういうのは」
「だめなの?」
野上が言い終わらないうちに、リカコはそう声をあげた。見ると、彼女の瞳が微かに濡れている。勘弁してくれ、と野上は思わず深い息を吐いた。
「どうしてだめなのか、理由を教えて」
「いやいや、だいたい先に振ったのはそっちだろ。それなのに、なんで今さら」
「それは」
一瞬の間を置いて、リカコが答える。
「やっぱり、まだ好きだから」
「俺はもう好きじゃないよ」
そう言ってテーブルに二人分の代金を置き、野上は席を立った。過去に別れた女と話すことなど、もう何もない。リカコは、待って、と慌てて後を追ってくる。
たしかに、リカコはいい女だった。走ってくる彼女を見ながら、野上はぼんやりと過去を思い返していた。整った顔立ちとスタイルの良さは、別れてから二年が経った今でも変わっていない。
「野上くん」
リカコがようやく野上の隣に並ぶ。
「今日、ウチに来ない?」
「は?」
「どうせ暇でしょ。一晩くらい付き合ってよ」
彼女の声は、諦めとともにどこか色気を帯びていた。野上はこれ以上の説得は不毛だと悟り、わかったよ、と仕方なく頷いた。
リカコの住むアパートは、歩いて二十分ほどの距離にあった。付き合っていた当時、野上が実家暮らしだったこともあり、そこには頻繁に出入りしていた。
「お邪魔します」
「どうぞ」
相変わらず、室内は質素だった。来客は滅多にないのだろう、彼女の出してくれたスリッパはまだ真新しかった。
ワンルームの部屋でひときわ存在感を放っているソファベッドに腰を下ろすのは、野上にはなんとなく気が引けた。そこで、床に敷かれたラグの上に座っていると、リカコが目の前のローテーブルに淹れたてのコーヒーを置いた。野上は礼を言って、羽織っていたジャケットを脱いだ。
「なあ、リカコ」
「ん?」
寄り添うように隣に座ったリカコが、野上の肩に自分の頭を乗せた。
「酒、あったりする?」
「あるよ。飲む?」
「なんとなく、酔いたい気分なんだ」
野上が言うと、リカコはキッチンに向かい冷蔵庫から二本の缶を取り出すと、それを手にこちらへ戻ってきた。ビールと酎ハイ。リカコは普段、酎ハイしか飲まないはずだった。
「最初から、そのつもりだったのかよ」
「まあね」
答えながら、リカコは酎ハイの缶を開ける。野上もそれに
酔うと理性が飛んでしまうのは、二人の共通点だった。リカコは立ち上がると、カーテンを閉め、部屋の電気を消した。彼女の足取りは、すでにおぼつかなくなっていた。
薄い闇の中で、二人の視線が絡まる。野上の思考は、もうほとんど溶けてしまっていた。シャツの襟ぐりから覗くリカコの鎖骨を撫でると、唇を塞がれた。そういえば積極的なタイプだったな、などと考えながら、互いの舌を絡めた。
「ねえ」
舌を離し、吐息のような声でリカコが言った。
「やっぱり、だめ?」
その問いに、野上はしばらく考え込んだ。溶けた思考の中、ここで判断を誤ってはいけないと制御する自分がいた。
野上は脱ぎ捨てたジャケットを摑み、立ち上がる。帰ろう、と思った。そのまま玄関へ向かう野上に、リカコはよろけながらついていく。
「野上くんっ」
リカコは必死だった。それが伝わってくるからこそ、野上はあえて突き放すように言った。
「セフレとしてなら、大歓迎だよ」
立ち尽くすリカコを背に、野上は彼女の家を後にした。
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