妄執のカルマは虚構の正義を空想の異界へ嗤い誘う

USHIかく

妄執のカルマは虚構の正義を空想の異界で嗤い誘う


 ――その日、女はビルの屋上から飛び降りた。

 夜闇やあんに包まれた、肌寒い秋のことだった。



* ―― * * * * * * * ―― *



 いつの世界か、どんな舞台ステージか。そんなことはわからないし、どうでもいいのだけれど、私の、そして君の瞳に映っているのはきっと泡沫うたかたの現実だ。

 その景色が、寂寥感が蔓延り、社会という魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする現代日本であることは紛うことなき事実かと思われるけれど、果たしてそれが本当にこの文章を読んでいる君と等しい次元のお話なのかは如何せん知る由もない。

 だが、君がそう信じてやまないのであれば、きっとそうなのかもしれない。だから、このわびしき狂想曲カプリチオは――そうだね、君の知らないすぐ近くの出来事なのかもしれないし、一生関わりのない、遠い俗界の顛末てんまつなのかも、しれない。


 幾星霜も昔。それは、燦然さんぜんと自己の存在を強調せんと真っ暗な天空に輝く星々が裸眼にも映る時代だった。

 でも、君の周りには今では往々と技術が発達した近代世界が広がっている筈だ。

 猫も静まり返った真夜中、外と中をへだつ扉を開けてご覧。人工光源が作り上げた、都会に浮かぶまがい物の星空には、皮肉にも星はもう全く見当たらない。


 そんな星のように、あらゆる物質への好奇心だとか、自分の意味っていうものを大昔の人は追い続けた。少なくとも、星が宇宙そらに輝いていた時代は。だが、その根源的な自己存在の疑問たるものをも夢の彼方に忘却してしまったのが君たち現代人。

 技術とともに世界が近代化に侵され、ヒトは疑問を見つけて未知を開拓することから幕を引き、社会通念たる既成概念に籠絡される始末にあった。


 さて、そんな近代人も大都会の街並み。そうだね、渋谷の交差点でも思い浮かべてみようか。落ち着きという単語とは無縁の、それも騒然とした混沌なんて表現したくなる人集ひとだかり。

 そこの民衆は、周りの目線や迷惑だとか、自分という生き物が今この瞬間存在する目的なんて高尚なものは脳内から蒸発させ、我欲の赴くままにみちを進む。スクランブル交差点を渡る人たちの双眸には、果たして原始的な人類を象徴する色は灯されているのかな? 


 世間一般が良しとする、現代日本人としての在り方の期待に応えたせいで、皆同じような、退屈で空っぽな人生を歩む。そんな人々の瞳孔が灰色に見えてしかたないのは……うん、私だけかもしれないね。

 君にとっては色鮮やかに乱れ舞う、命を謳歌する若き男女が集いし、現代の街頭なのかもしれない。決して解のない人生は、まるでメビウスの。まあ、こんな比喩表現はとりわけ関係のない話だ。


 ところで、少々奇妙な私の独白を紙で追っているであろう君は、たった今困惑一色に染まっているやもしれない。だが、少々このつづりを我慢してくれまいかな。私の奇文でこの奇抜な女のエキセントリックな物語を追随ついずいしようではないか。


 そう、今回の、言うなれば主人公。彼女は、孤独に満ちた現代日本に住まう、社会適応という体でミンナ色に染まった、思考放棄状態の一般人どもとは決して相容あいいれることができない、自己中心的と言われればそれまでの、ただ一人で独りの大人になりきれなかった、女。

 人間っていうのはそういうものだ、と割り切って諦めることができなかった、俗にいう異端児。そう、ただの頭のおかしな精神的年齢不変の『少女』が、エゴを通してふるいを怖れながらむくいを犯し、取り返しのつかない選択をとってしまったそのとき、終焉しゅうえんの夢の先には何が見えるのか。

 過剰な正義感に囚われ、自己陶酔する姿に中毒症状を発した盲信の先の天空。

 宗教くさい伝聞かもしれないけど、世の真理を説く自称・神との邂逅と、その世界様の現実をあらわす、少々異風な奇譚。


 さりとて、彼女を待ち受けるその『カルマ』をどう受け取るかは――キミ次第、だね。



* ―― * * * * * * * ―― *



 ここは、新宿あたりの、仄暗く寂しい路地。虚空の俗世からは少し奥地の、点滅し始めた街燈がいとうが微かに照らす、住宅街のような薄暗い道。

 ランプの点滅音の他には、遠くからかすかに聞こえるパトカーのサイレンくらい。そんな、静寂な空間。

 新宿のビルと言っても大したものではない。狭い道並みのほんの少し先に立つ、せいぜい五、六階建ての建物。もうすぐ冬を迎えるこの時期でも日を超えるまでの残業を強いる中小企業は、所謂ブラック企業のレッテル待ったなしだね。

 そこからは、つい先程、最後の電灯が消された。帰路を急いだ抜け殻のような男は、施錠管理を怠ってしまったらしく、会社の裏口の鍵はかかっていなかった。


 小一時間ほど後のこと、物音一つ立てずに忍び込む女が居た。かれた様子もない、恐怖的に荒れ乱れて伸び切った真っ黒な髪の毛。ボロボロな痩身にはずっと洗濯もされていないような赤と黒の服を身に着け、正気のない眼差しで建物に侵入していく。


 ――うん、我々の主人公だ。


 実は、ほんの数ヶ月前まで彼女はこの会社に勤めていた。勤めているのか疑わしくなるような内容だけどね。怪物のようにまなこを暗闇に紅く光らせるエレベーターで最上階へ、そこから日中でも人通りの疎らな、上司の領域の奥まで歩を進めると、顔を出したのは古臭い金属の扉。『立ち入り禁止』と乱雑に書かれたボロボロの紙が適当に貼ってある。


 数時間前に帰った男――女の部下だった――が煙草を吸うために開けたそれは、またもや施錠を忘れられていた。女は、その扉に力を込め、真っ暗な階段を登っていく。辿り着いたひらけた真っ暗な屋上は大して広くなく、特に何もない。ランプは故障、鉄柵も不十分。


 さて、実に唐突だが、ラノベの世界では現在、異世界ファンタジーという物が流行っている。トラックに轢かれた冴えない青年が、剣と魔法のファンタジーの世界に転生するというお馴染みのアレ。

 我々の主人公のこの女は、既にまともでなく、早計かつ滑稽。自らの命を絶たば、夢の世界に召喚されると信じてやまなかった。サイコパスと化した狂人は全てを諦めた世界から逃避出来ることに狂喜。社畜のくだらなさにもがいた末、の会社を飛び出た女は、瀟洒しょうしゃにも狂乱。阿鼻叫喚の果てに、女は屋根に着いた。


 女は、出来ればこの地球とは異なる世界への輪廻転生りんねてんしょうのため、遂にここまで来れたのだ、と思った時、女の口元は不意にも歪む。静寂で寒冷な都心部、気付けば女は閑静な星空の下に、醜悪な哄笑を零していた。

 

 正義も悪もわからない、所詮悪の象徴が蔓延するくだらない世界から逃避することに、覚悟も躊躇いも必要なかった。囲いを乗り越えた女の足は地面を離れた。永遠に感じた数秒の間、風に掠める冷風が柔肌に突き刺さる。朦朧とした意識の中、女には走馬灯らしきなにかが見えたような気がした。否、走馬灯と呼ぶにはあまりにも空虚……それは――空っぽ、だった。人が皆無意味だと思っていた自分が、ここまでからっぽ。ただ目をつむり、自虐的な嘲笑を浮かべ、女は気を失った。


 宵闇よいやみに、生き物を呪うような鮮血が、裏路地に流れる。漆黒のからすが数匹、屍体したいついばみ弄んでいた。


 とても、爽快な終わり方だった。



* ―― * * * * * * * ―― *



 幾許いくばくもの時が経過したのかも不明瞭のまま、覚醒した女の前に悠然と広がっていたのはいかにも創作に現れそうな、想像通りの中世ヨーロッパのような世界観だった。ファンタジー世界の大都市のような道並み。通りすがる西欧風の男は、いぶし銀の鎧を身に纏い、長剣を下げていて、その傍らの、整った顔立ちの美女たちは華麗なドレスで美青年にはにかむ。


 彼らの口からは、故郷では聞いたこともないような異種の言語が飛び交っていた。また、動物と人間の特徴が混交した、ヒトならざる生物も堂々と大通りを闊歩していた。佩剣はいけん、ブロンドに、亜人。女は、魔法の世界に召喚されたことを確信し、狂った思想を捨てて全てをやり直すことを決心した。


 早速、異国の地を歩き出す。石造りの道路を進みながら、物珍しそうに果物の露店などを見回って。周囲を少しばかり散策したあたりで、突然自分を攻撃してくる数多もの視線に、女の首に疼きが走った。

 強迫の盲信をかせに、自分の本能的な行動を悔やむが、そのいましめはなんの効果ももたらさない。

 自分を抑えられなくなる。

 苦しい、来るな。見るな、見るな、私を見るなッ! ――と。

 

 情緒不安定な心持ちのまま、女はその顔を上げてみると――誰一人、女に気を向ける人はいなかった。

 執拗に周囲を見渡し、いずれ声を張り、見てくれ、気が付け、と叫んでいたが、それに気が付く人は誰ひとり居ない。どうせなにもかも同じなんだ、と譫妄せんもう状態の狂気に頭蓋が満たされるその感覚は……ふと、水滴が一滴と滴るように、止まった。

 それを先導したのは、とある拍手の音。

 

「やれやれ。――全く、無駄だった」


 ――その瞬間。世界は、真っ白に染まった。否、『無』になった。


「本当に、無様だな。お前は、本当にお前の思い描くような創作の世界に飛べるとでも信じていたのか?」


 それは、低く、気怠げな男の声だった。いや、男なのか、それすらもわからなくなる、魂を惑わす声音こわね。その主を辿ると、表現をすることをも憚られるほど畏)れ多い存在と、目――そんなものがあるのかどうかもわからない――が合った。


いましめよ」


 多少もの怒りを孕んだように、男はぼやく。女は、我を失ったように。目の前の存在をただ見つめていた。唖然あぜんとする女に、


「罪人の自害が都合通りの世界にお訪ねになれるとでも思っていたのか? 馬鹿馬鹿しい」


 とそしるが、女は依然反応ができない。

 茫然とした視線はいずれ狂気的な睥睨へとはぐくまれ、女は訥々と疑問を口にしだす。それに答えるように、


「――お前は、一度に問いをしすぎだ。答える義理はないが閲覧の隙だからな。先程の光景は、お前の脳内の妄想を映像化してみただけだ。幻想の住民がお前を認識できるわけもない。そんなものは存在しないのだからな。そして、ここは魂の分岐点とでも考えておけ。また、お前が私をなんと思ってなんて呼ぶのかは知らんが、神だとか閻魔大王とでも、な」


 自称・神は、続ける。


「お前に話す内容はさほどない。繰り返すが、ここは魂の分岐点だ。家族に泣かれて旅立った人も、授かった命を利己的に投げ出すお前みたいな凡愚も、魂は皆この空間に集う。選別というほどではないが、私は魂の行き先を決める役割を担う。人生の記憶を俯瞰ふかんし、地獄に突き落とすか、お前らの言う輪廻転生の機会を与えるか、も私が決める。転生するとしたら、その先も」


 ゆっくりと、女はその言葉を飲み込み、そして、訴えた。人生で遭遇してきた人々の、空っぽな中身と灰色の瞳。己を忘れ、社会制圧された機械たち。自分の人生が狂ったのはこいつらの側で生まれ育ってきたからだ、だからこそ、自分にはやり直しの、人間としての輪廻転生がされるべきだ、とせびる。


「戒めよ、咎人とがびと。省みよ、エゴ。お前の人生を眺望してきた。とても、残念な記憶だった。享年二十の女の悲惨な幼少期と、歪曲した思考回路、そして惨憺さんたんたる最期。莫大な数の命を有様を見てきた中でも、同情の余地は少なくない。ただ。社会に適合できなかった自己中心的な塵芥ゴミであるお前の、貴様の独りよがりの行為は、言い逃れのいとまもなく罪だ。自分を失った素振りで人間性というものも貴様は忘失したつもりなのか。――戒めよ」


「――――」


「――お前の、思考を読んだ。なるほど、実に愉快なことをしてくれたものだ」


 ――面白い、と軽く噛み締めた自称・神は、不敵な笑みを僅かに浮かべて続く。


「かつて、人間は『神は死んだ』と言った。人間風情の思想やら技術が、『科学』を神にしてしまったのは見ていて実に滑稽で爽快だった! 大変傲慢な人間様の固定観念を真っ向からぶち破ろうとしたとは。その逆説は、私のような神の存在を容認することになるわけだが、お前は私が『神』であると信じることはできるのか? クックック」


 ――だがな、と声音や顔面に表れていた表情が俄然がぜん消灯され、冷徹な眼差しになる。


「戒めよ。お前は、貴様は罪人つみびとだ。社会調和も出来ず、赤の他人を殺めた。幻影の正義感と捻じ曲がった倫理観に従い人間世界に不調を巻き起こした。人を、巻き込んではいけない。貴様は、人の命を、熱くも滾る命を強奪したのだ。情状酌量の余地は、ない」


 多少のなさけがこもっていた声から、そして、活気が消える。まるで、これ以上話す価値がないと判断されたかのように。そして、それは、あらゆる毛穴をなじる威圧的で気懈きだるいものに変化する。


 女はそのとき初めて目の前の、人物への、存在への畏怖を実感した。もの恐ろしさに少しずつ脳内を侵食され始めた彼女は、息を呑みつつ睨み続けた。


「そして、だ。その多くの最期を看取ったのは誰だと思う? ――私、もしくは私の助手。貴様が罪なき人間を殺戮したのは、紛れもない、不変の事実だ。――戒めよ」


 ――嫌だ。やめろ。


「お前の行き先を決定した。――戒めよ」


 ――嘘だ。やめてくれ。怖い。お前らが空っぽだったせいで。


「気が変わったらお前を転生させるかもしれないな。――戒めよ」


 ――! みんなが悪い。お前が悪い。。私は間違ってない。私が正しい。お前らが間違ってる。怖い。

 恐ろしい。やめてくれ。


「いい夢を、見ることだな。――戒めよ」


 やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。怖い。怖い‼ やめろッ‼


目を覚ました先じごくで! これも、天の宿命だ。――戒めよ」


「やめろォォォ!」


「――戒めよッ‼」


 いつぶりかもわからなく発された女の乾いた絶叫が、断末魔として、審判の空間から、絶たれた。

 



「――それにしても、面白かった。人間というものは、な精神と思考をも、狂気の沙汰へ運んでいくのだな……」


 その呟きは、だれにも聞こえなかった。

 


* ―― * * * * * * * ―― *


 

 それは、女がまだ幼かった頃のこと。美しい黒い髪を靡かせる、端正な顔つきの少女はずっと、こんな感想を抱いていた。

 ――みんな、同じ。みんな空っぽ、と。彼女は、人間が、世界が、我々が、と次々と疑問を抱いた。しかし、その好奇心のことごとくは口にすることも忌避され、記憶から抹消するかの如く潰されてきた。少女は、ただ知りたかっただけだった。


 少女の身体の発達につれて、彼女は正義とは、善とは、悪とは、神とは、と周りの子供達からは明らかに乖離した疑問が芽生えてきた。

 ――その萌芽は感情を昂ぶらせ、自己の正当性をうたう思想へとらずらずに変容していった。


 意見という名の一般論。圧力による立場。世界とは、人間とは、無意味、無意義、無価値。科学を信仰する欺瞞の現代に、総支配者なる神はもういない。人間とは生来悪であり、諍いのない世界平和は権力者の虚構に過ぎない。

 少女は、憤懣を胸に、そう確信した。


 しかしそれでも、自分の人生さえ楽に行けば良い。偽善にへつらうよりは、金で、権力で、孤独の楽園を創り上げ、そこに閉じこもった。欲しい物がなんでも手に入った。それでいい。人間なんてそんなものだから、自分の世界に浸って入れればいい、と。


 ――自分の思い通りに全てが行ったのは、義務教育を終えるあたりまでだった。奇想天外で自己中心的な娯楽も思うがままに堪能できた世界から、権力や『大人の事情』を盾に取り、現実という化け物に放り出され、それに適応できるよう、真っ向から対峙させられた。

 自己嫌悪とともにヒトの無意味さを噛み締めながらも、その感情を隠匿し、周囲の期待に添えるように取り繕って、令嬢の品格を保ってみせた。

 しかし、どういう風の吹き回しかは全く定かではないが、女は、家族のツテからとある中小企業に勤めることになり、新宿のさびしい路地のその中小企業の上位の座についた。


 だが、笑みを浮かべ続けた女の精神は圧倒的摩耗、彼女の精神こころは疲弊していた。社会問題、人間、現実、世界、人類、神……。そんな疑問が湧き出てくるほど、女の精神の正気は失われていった。


「どうして、部長はいつもそんな眼をしてるんすか?」


 こう、声を掛けてきた、青年がいた。上下関係があれど、年齢はほぼ同じ。精悍な風貌の、精気ある男だった。


「どうして、部長はいつもそんな辛そうで、苦しそうな眼をしてるんすか?」


 頑張って取り繕ってきたはずだったのに、それをも見抜いたかのよう男に、女は閉口していた。


「どうして、部長はいつもそんな、狂気的な眼をしてるんすか?」


 女は、辞職した。



 全部お前らのせいだ、お前らがおかしいんだ、お前らが悪いんだ。

 そんな自責の念は、女の理性を奪った。

 そして女は、考えることも、いずれやめた。

 

 家族を、元同僚を、そして全く罪のない一般市民を『正義』の名のもとにナイフを滑らせ、尊い命を無差別に簒奪した女は、警察から運良く逃れ、確執のあった建物の妄執を追って、天高くから、自由落下した。



* ―― * * * * * * * ―― *



 ――この場所は真っ赤で真っ黒で誰も居なくて誰でも居て世界の始まりで世界の終わりで全ての混沌の全てわかって何もわからない全知全能で叡智万歳の完全無欠虚空絶望の妄執劇場の破壊火炎でなにもかもを造り何もかもを壊し全ての最終到着地点で全ての来たくない場所で理不尽の非合理の暗澹たる煩悩のとがびとで罪人で狂人な確実の迫真で怜悧な結集の最終舞台で歪な支離滅裂かつ狂気的で理解不能で最終決着の意味不明な乱暴な粗暴な魑魅魍魎の圧倒の乱暴の邪智暴虐の戦戦慄慄の混沌の絶対の無の虚構の地獄の地獄の地獄の奈落の奈落の奈落の火炎の――――。

 


 女は、自我を失っていた。自分が誰で何をして何を考えていたのかは、もう思い出すこともできない。魂を支配するのは痛みと苦しみだけ。具体的に記すことさえも憚られるような、身体の隅々まで焦げ舐め回されて想像を遥かに絶する陵辱に、世界の最下点の業火の灼熱に身体からだを炙られ、終焉の煉獄はただただ、炎に炎に炎に炎に炎に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に――。

 


 人間の存在の是正を目論んだ女は、寧ろ悪人とされ、狂気に意識をさらわれ、取り返しのつかない戮殺おこないをしてしまい。

 それの結果が奈落の劫火ごうかなわけだから。


 ――それは大変、皮肉な、カルマ。



* ―― * * * * * * * ―― *



 それがどれほどのものかは分からないが、さりとて、とてもとても長いもの時間が経った。吹き荒れる砂嵐、衰廃した荒野。

 その日、地球という惑星の、どういう国名のどんな場所かもわからない世界に、貧しくも互いを愛し合う男女が、新しい命を授かった。


 ――この幼き少年の胸に、正義という運命に固執し、翻弄された執念の塊が潜み眠っていることは誰も知ることはない。


 ――それはまた、別の話。



* ―― * * * * * * * ―― *



 さて、いかがだっただろうか。世にも奇妙な、正義に振り回された人間のカルマの物語。

 僭越せんえつながら、私から小説のように地の文を解説してみたのだが、どう感じたかな。女の名前を語る必要はない。なぜなら、咎人は存在を知られずに忘れ去られることが、一番恐れの大きいことだからね。




 ――ところで、すっかり忘れていた。君が今一番気になっているだろうこと。私は誰か。ではないだろうか。


 ――はて、誰なのだろうね? 正直なところ、それは私にもわからない。

 もしかしたら、主人公の女の別の人格なのかもしれないし、もしかしたら著者の生み出したナレーターなのかもしれない。もしかしたら君の世界の神なのかもしれないし、もしかしたら自称・神の創造主かもしれない。

 ――もしかしたら、君自身なのかもしれない。


 もしかしたら、もしかしたら――。


 それを、私に知ることはできないよ。

 

 それは、運命の戯言ざれごと


 それは、キミ次第だ。

 



 〈了〉

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