第8話伯爵様とマスターの気まぐれカレー・2
「店内に漂う刺激的な香り……これは香辛料の香りだと思うのだが、違うかね?」
突如やって来た貴族(らしき)の中年男性にそう尋ねられる潔。
「えぇ、その通りです」
「では、それを貰えるかね?それと紅茶を頼もう」
「か、畏まりました。今から提供する料理……『カレー』と言うのですが、スパイスの利いたシチューのような料理です。付け合わせはライスとパンが有りますが、どちらになさいますか?」
「ふむ……ライスというのは聞いたことが無いな」
「簡単に言えば麦を炊いた様なもの、といえば分かりやすいでしょうか」
「麦粥の様なものかね?それはあまり好みではないな……。では、パンを貰おう」
「畏まりました。紅茶は食前と食後どちらになさいますか?」
「食後にしよう。スパイスを堪能する前に紅茶を飲んでは勿体無いしな」
「解りました、準備致しますので暫くお待ちください」
「うむ、頼んだ」
そんな受け答えを終えると、潔は早速カレーを出す準備に取り掛かる。と言っても、作り置きしてあったカレーを温め、パンを軽くトーストしてサラダを準備するだけなのだが。
潔はカレー好きである。サラリーマン時代には週に3回は昼食にカレーを食べていたし、色々な店の食べ歩きをしていた。食品の輸入代理店の様な会社に勤めていた事もあって、スパイス等をコレクションして自分なりの配合の本格的カレー作りにハマった時期すらあった。しかし潔が最終的に行き着いたのは、市販のカレールーを使った所謂『家のカレー』だった。具材を炒めて水を足して煮込み、ルーを入れたらカレーが出来る。日本人なら当たり前に思う光景だが、これ程優秀な食品は中々無い。それに、1つ間違えれば大惨事になるスパイスの配合などはメーカーによって様々あるが、皆一定以上の美味しさを保っているのだ。しかもそれらを組み合わせれば、様々な味を楽しめる上、中に入れる具やトッピングを合わせれば最早その可能性は無限大。そんな組み合わせを楽しむタイプのカレー好きになった潔には、決まったカレーのレシピという物がない。肉は牛・豚・鶏にはじまり、ラムや挽き肉、業務用スーパーで買ってきた肉団子にシーフードなんて時もある。野菜も定番のジャガイモ、ニンジン、玉ねぎだけでなく時期の野菜や珍しい野菜などを使ったりもする。その組み合わせは潔の気まぐれで、作る際にも隠し味に色々な物を入れて作る、正に『マスターの気まぐれカレー』というメニュー名に相応しい無軌道ぶりである。因みに今日のカレーはチキンカレー。鶏のモモ肉に定番のジャガイモ、ニンジン、玉ねぎを入れて隠し味にヨーグルトを加えた少し酸味の利いたマイルドなカレーだ。そこにトーストを添えて、生野菜のサラダも付ける。これでセットの完成だ。
「お待たせ致しました、『マスターの気まぐれカレーセット』です」
~伯爵視点~
「お待たせ致しました、『マスターの気まぐれカレーセット』です」
そう言って差し出された料理を見て、私は思わず心の中で唸ってしまった。美味そうだと感心したのではなく、
『果たしてこれは、食べても大丈夫なものなのだろうか?』
と。傍らに添えられた柔らかそうなパンに、街の市場でもお目にかかれるか怪しい程新鮮な野菜の盛り合わせ。恐らくは生のまま食べられるのだろう、上からソースのような物がかけられている。それよりも、中央に鎮座する大きめの皿に盛られたシチューのようなこれだ。中に見えるのはジャガイモにニンジン、玉ねぎに恐らくは鳥の肉だろう。それらが食べやすい大きさに切られ、スープの中を泳いでいる。しかし、そのスープはドロリとしており、色は茶色かった。普段口にするスープといえば、透明か僅かに黄金色をした物だ。北の地方では真っ赤に染まったスープも存在すると聞くが、茶色いスープは聞いた事が無かった。しかもドロドロとしたこれは、食べ物というよりも……その、排泄物に見えて仕方がない。だが。
『だがなんだ……?この食欲を掻き立てられる様なスパイスの芳醇な香りは!?』
ゴクリ、と喉が鳴る。鼻から入ってくる香りは早く食べろと催促をする。だが、目から入ってくる見た目は食べるのを拒否している。何とも情けない話だが、私は目の前の料理として出された物に対して怯えていた。
「あの……」
申し訳なさそうに店主が話しかけてきた。
「な、何かな?」
「もし召し上がられないのでしたら、別のお料理をお出ししますが……?」
なんと。店主は皿を睨み付けたまま固まっていた私の身を案じて、料理の交換を申し出てきた。何と情けない事か。食道楽と他の貴族から持て囃され、山海の珍味を味わい尽くしてきたと豪語するこのヴェルナー・フォン・メンヒペリが!
「いや、いやいや。私が食べたいと注文したのだ。勿論頂くとも」
私は匙を握り締め、『かれー』とかいうスープに差し込み一匙掬い上げる。そして、口の中へと放り込んだ。
「んんっ!?」
瞬間、頭の中で様々な言葉が駆け巡る。『美味い』『辛い』『甘い』『美味い』『酸っぱい』『美味い』『美味い』『美味い』……今まで食べてきた料理が、全て色褪せてしまいそうな程の味の奔流。複雑な味が幾つも絡み合い、お互いを引き立てあってこの料理の味を完成させている。
「美味い……」
もっと他に賞賛の言葉を紡ごうとしたのだが、未だにカレーの衝撃に混乱を来している伯爵の口から出たのはシンプルなその一言だけだった。ベースとなるスープと共に口にいれたのは、大ぶりに切られた鳥の肉だった。その鳥の肉も驚く程に美味い。通常、市場に並ぶのは卵を産めなくなった廃鶏や猟師が仕留めてきた山鳥、後は珍しい所では冒険者の討伐したモンスターの肉である。これは恐らく鶏……それも、廃鶏とは思えない程に瑞々しく柔らかい。廃鶏とは年老いていて、筋張って硬いと相場が決まっているのだ。
『もしや……若鶏、なのか?』
若鶏。卵を孵し、雛から育てて成鳥になったばかりの鶏を締めて食べる。そのような贅沢が許されるのはこの国でも侯爵以上の貴族と王族位の物だ。雄は臭いがキツいと食べる者は少ないし、雌は卵を取る為に長く大事に育てられる。だからこそ卵を産めなくなった廃鶏が市場に並ぶのだ。ただ殺して捨てるのは勿体無いから、と。しかしこの鶏肉は若鶏の肉。それを、惜し気もなく庶民の口に入るかも知れない料理に使う。この世界の常識からすればあり得ない暴挙とも言える贅沢。それだけで伯爵はこの店が異界に繋がる料理店だと確信を持った。
そもそも、この『かれー』なる料理には香辛料が使われている。それも、1つや2つではない。最低でも5種類……いや、両手の指では数え切れない種類の香辛料が使われている。そうでなくては、この複雑怪奇な味わいは出せないだろう。しかもそれが、あの大鍋一杯に煮込まれているという。あれだけの量の同じ料理を作ろうとしたら、どれだけの金貨を積むことになろうか。恐らくは庶民の家族であれば数ヵ月、下手をすれば数年暮らせるだけの金がかかるだろう。
『それほどまでに勇者様の住まわれる世界は富に溢れているというのか……』
伯爵は尊敬よりも畏怖を感じてしまう。それは、統治者として真っ当な感覚であろう。更に伯爵はカレーを食べ進める。ジャガイモの柔らかさと香辛料との相性に驚き、ニンジンの甘さと青臭さが無い事に愕然とし、トロトロに煮込まれた玉ねぎの甘さに感動した。やがて皿の中のカレーが半分ほどに減った頃、伯爵は店主に声を掛けられた。
「あの、カレーをパンに付けないのですか?」
「うん?あぁ、かれーとやらの美味さに酔いしれていてな。パンの存在を忘れていた」
「そうですか。カレーは本来穀物やパンにかけたり浸けたりして食べる物でしたので」
「そうなのか?では是非そうして味わってみねば」
そう言って伯爵はこれまた驚く程に柔らかく、香ばしい香りを放つパンを手に取ると食べやすい大きさにちぎって、カレーに潜らせて口へと運ぶ。瞬間、伯爵は今日何度目かの驚愕を味わった。カレーは、カレーのみで完成された物では無かったのだ。
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