第57話 ジャスコ城でおやすみなさい
湿度が高く、常に汗が流れ落ちる森林。その中にある静寂な泥沼は薄暗く不気味であり、死がそこに潜んでいるという感覚が常に付き纏う。
アンナはふと気付いた時、既に会敵中だった。敵はマタビリ。巨大な腹と膨れた頬が特徴的な、カエルに似た悪霊である。体長は三メートルほどもあり、その口で森を訪れた人間を丸呑みにするという。
マタビリは沼の中央にどっしりと王様のように体を構え、気色悪い黄色い瞳でアンナとドンナを見つめていた。直後、ぱんぱんっと腹を太鼓のように鳴らすと、跳躍。そのぶよぶよとした腹で二人を圧迫させようと襲い掛かってきたのだ。
「アンナ、来るぞ!」
「わかっている!」
【リゲムチャ】を揺らして音を鳴らし、マナを媒介に神々の力を借りる。いつもと同じように、二人で一緒に。
「〈カイアの雷鳴〉!」
【リゲムチャ】より強烈な雷光が迸り、マタビリに命中。雷に蹂躙された悪霊は怯み――
「やった」とドンナが快活を叫んだ直後だった。マタビリは泥沼を掻き分け、猛進を開始。暴れ牛のように二人に迫ったマタビリは大口を開け、次の瞬間、
「うっ……」
ドンナを丸呑みにした。
「ド、ドンナ!」
余りにも突然の出来事だった。全身が凍り付き、衣服が汗でびっしょりと濡れる。愛した兄が、無敵だと信じていた兄が呆気なく目の前から消える。耐え難い恐怖と悲しみが頭を鐘のように揺らし、心はガラスのように割れていく。
「あ、あれ……これは、どういう、こと……」
頭が真っ白になるような感覚の中で、アンナは違和感を抱いた。
「ドンナは……ここで死んだ……? 違う。違うはず。でも、ドンナは確かに、死んで……?」
気が付いた時、目の前からマタビリは消えていた。それどころか、景色が大きく変わっている。木々の匂いが鼻を突く。視界に飛び込んできたのは丸太を重ねたような壁が特徴的な空間。
ここは、アンナの自宅。ログハウスに似た自然の素材を余すことなく使った高床式の家だった。もちろん、アンナ一人で暮らしていたわけではなく、
「どうした、アンナ。魘されていたぞ」
兄ドンナも同居していたのだった。
「ド、ドンナ? よかった、今のは……夢……」
安堵の息を吐き出すアンナ。ドンナは優しくアンナの頭を撫でる。
「落ち着いたか? 今日はケワナンボの討伐依頼が来ているんだ。気を引き締めるぞ」
「えっ……今日も……?」
ケワナンボとはニューギニア島に出没する怪物。人間の女性に化け、子供を誘い出しては食べてしまうという。近隣の村で被害が発生し、ビー兄妹に依頼が飛び込んできたのだ。
「さあ、行くぞ。アンナ」
「うん、ドンナ……。アン、頑張る」
準備を整え、ビー兄妹はケワナンボを討伐すべく出発。
そして――
アンナが気付いた時、ケワナンボがすでに目の前に立っていた。足元までざんばらの髪を伸ばし、簡素な衣に身を包んだ人型の怪物だ。ナイフのように鋭い爪をがちがちと鳴らし、獰猛な瞳に音響術師の二人を映している。
「え……?」
まるで時間が飛んだような気分だった。【リゲムチャ】を握る手が震え、からからと力の無い音が漏れていく。
「アンナ、来るぞ!」
ドンナが叫んだ。その瞬間、アンナに頭が真っ二つになりそうなほどの激痛が襲い掛かる。
「なに、これは。さっきも、あった……」
夢で見たような既視感だった。アンナは全能ではなく、預言者でもない。しかし、この後訪れる悲劇を全身で察知した。
「ドンナ!」
アンナが叫んだ時にはもう次の「場面」になっていた。ドンナの胸がケワナンボの爪に切り裂かれ、その逞しい肉が抉られ、怪物に貪り喰われていた。戦慄の光景にアンナは意識の糸が千切れそうになるが、必死になって堪えた。
「何が……起きている……? これは……まさか……」
繰り返される兄の死を目の当たりにしていると、景色がぐにゃりと歪んでいく。
さらに次の瞬間には、
「どうした、アンナ。魘されていたぞ」
また新しい朝を迎える。
「ドンナ……?」
また、夢だった。すると自分は夢の中で夢を見ていたのだろうか。アンナは眉間に深く皴を刻む。
「落ち着いたか? 今日はカイアムヌの討伐依頼が来ているんだ。気を引き締めるぞ」
そしてまた、ドンナは討伐依頼を口にするのだ。
「……頭が……痛い……」
愛する兄がすぐそこにいるというのに、安心感はどこにもない。アンナの体は怖気に包まれ、錆び付いたブリキ人形のようになってしまった。
自分は何をしているんだろう。どこへ向かっているんだろう。
「これは、『悪夢』……」
頭がまた白く染められていく中で、アンナはそんな言葉をぽつりと呟いたのだった。
「睡眠は人類に必要不可欠な生理的状態。誰もが快適で安らかな夢を求めて眠りにつきたいと願う。その手助けをするのが、余の力ということですな!」
毛布や枕、マットなどが棚に並ぶ空間。人の背ほどもある高さの収納家具が列を作っている部屋。
男がニコニコと笑みを湛えていた。彼こそは幼少のころから織田家に仕え、信長と共に様々な戦場で活躍をした戦国武将。明智光秀に代わり、織田四天王の一人として名を連ねている池田恒興である。
今の彼の肩書はジャスコ武将「家具・寝具売場」責任者池田恒興。
そして、今現在もジャスコ武将最大の特徴であるジャスコ術を使用中であった。
「さ、退魔師の女子共よ。永遠に醒めぬ夢の中で、幸福に包まれるといいですぞ。おっと、場合によっては悪夢かもしれませんがな!」
快活に笑い声を飛ばす池田恒興の目の前には、二人の女子の姿があった。
メラネシアの音響術師アンナ・ビー。
ゴーレムマスターネメシスの置き土産アレキサンドリア。
二人共揃って瞼を深く閉じ、頭を枕に預けて夢の世界へと旅立っているようだった。
これこそが、池田恒興のジャスコ術〈快適夢空間ベッド〉である。
その効果は相手を強制的に眠らせ、夢を見させるというものだ。
ジャスコ姫の力によって分散されたアンナとアレキサンドリアは、煙の中に潜んでいた池田恒興と会敵。顔を合わせる前にジャスコ術を使用され、夢の檻へと閉じ込められてしまったのである。
「首、肩にフィットしやすいカーブ設計。寝返りしやすいワイド幅。腰、太腿、ふくらはぎ、かかとにもそれぞれ適したカーブを使用。自然で無理のない理想的な寝姿勢を保つ設計は体の部位に合わせて細かく体圧を分散しますぞ! これで、誰もが心地良く幸福な夢を見ることができる……。くふふ、余のジャスコ術は無敵! 完璧! 快適!」
寝息を吐いている少女たちを見下ろしながら、池田恒興は手を添える。
「うむ。麗しき少女たち。森羅の力を感じるぞ……。では、その森羅、余が喰うとしましょう。夢を見ている者から力を奪う、これまさに夢喰い!」
池田恒興の手が妖しく輝くと、アンナの体もまた呼応するように、蛍の光のようなものを肌から浮かび上がらせた。それは【リゲムチャ】を演奏する時にも生じるマナの光であった。
「ドンナ……」とアンナは眉間をぴくぴく動かしながら、寝言を呟く。
「ううむ、極上ですな! そして少女たちは夢を見る。死ぬまで終わらない夢を! 夢から目覚めたくと思っても無駄無駄無駄。余のジャスコ術が、永遠に夢の世界に閉じ込めますからな!」
美酒を味わったかのように上機嫌の池田恒興。多くのジャスコ武将を斃してきた退魔師の仲間を仕留め、達成感に包まれた顔から笑い声が途絶えることはない。
かに見えたが――
《▼まったく、ギャーギャーやかましい男ですね。お母さんに言いつけてやりましょうか》
「な……!」
突然のことだった。アンナの隣で瞼を閉じていたはずのアレキサンドリアが開眼。一瞬にして弾丸のような威力の拳を池田恒興の鳩尾に叩き込んだのだった。
奇襲を受けた池田恒興は怪訝な顔を作る。
「ぐ……。馬鹿な。なぜ起きている……? なぜ夢を見ていない……? 余のジャスコ術は……ありとあらゆる人間を眠らせるのですぞ!」
《▼本機は夢を見ません。ゴーレムだから、人外だから、ダダッダー♪》
アレキサンドリアはむくりと体を起こし、ボクサーのように握り拳を胸の前で作り、ファイティングポーズ。
織田四天王最後の一人池田恒興との夢の戦いが始まった瞬間であった。
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