第53話 行け! 風魔月紫
ただ、あの方の力になりたいだけだった。
水面に小判のような月が浮かび、風が吹けば優雅に揺れる。
山から吹く風は心地よく人々を、山の獣たちを癒していく。
相模国。雄大な富士山に見守られた国。その中の芦ノ湖で月紫は生まれた。
生まれた時から月紫は一人だった。捨てられたというわけではない。海底から水面へと向かう泡のように、ぽつりとこの物質界で命を得たのだ。ある意味では、この大自然そのものが彼女の親とも言えるだろう。
幼いころから月紫は芦ノ湖を泳ぐのが日課だった。自由気ままに体をくねらせ、湖の端から端へと泳ぐ。時には水鳥から魚を分けてもらい、狸から木の実を得る悠々自適な生活。それを何年も、何十年も月紫は繰り返し、時を過ごしていた。
月紫は妖蛇だった。
自分が何のために生まれたのかも知らず、ただ自然の中で気ままに過ごす、自由の化身。それが風魔ルゥナのかつての姿だった。
何百年もこんな生活が続くかと蛇が思っていた時、生活は一変した。
芦ノ湖に人間の集団が現れた。刀や槍を持ち、武装した集団だった。その中には修験者や陰陽師といった呪を武器とする者――退魔師まで紛れていた。彼らは、血眼になり月紫を狩猟しようとしたのだ。
〝――見事な魔力だ。この芦ノ湖の主、魔王織田信長の残党に間違いないっ!〟
退魔師の誰かがそう言った。月紫は人間の社会のことなど無関心だったので、魔王織田信長などまったく知らなかった。だが、相手が激しい憎悪を抱き、月紫に敵意を向けているのは幼い月紫にもはっきりとわかった。
人間たちは月紫たちに襲い掛かった。鋭い刃が、熱き炎が月紫の息の根を止めようとした。月紫はわけもわからないまま、攻撃を――迫撃を受け続けていた。
腹が裂け、鱗が削げ落ち、尻尾が切られ、身が焼かれた。無垢な蛇が初めて感じた、激しい痛みだった。なぜ憎まれているのか、月紫は知る由もない。
〝――わたしはただ、この湖で好きに過ごしていただけなのに。魔王織田信長。誰なんだろう、それは……〟
戸惑い、抵抗することもできず月紫は雄叫びをあげた。
その後――
〝――やめろ! お前たち!〟
傷だらけの月紫を庇うように、一人の男が現れた。瑞々しい筋骨隆々とした金髪の戦士だった。どこか、その体からは自分に似た力を感じた。胸元には、十字の形をした首飾り。ただの人間ではないのは明白だった。
〝――あなたは、明智公!〟
男――明智の姿を目にした瞬間、人間たちは武器を収め、膝を地に着けた。
〝――この蛇は魔王織田信長とは無縁。それどころか、聖なる気の持ち主。この芦ノ湖の精だ!〟
〝――なんと……私たちは、そんな間違いを……〟
過ちに気付いた人間たちの中には狂乱し、切腹しようとした者までいた。明智は彼らを諫める。
〝――無駄に命を散らすな。それでは……俺が信長を斃し、この世を守った意味がない! 大人しく、この地から去れ!〟
〝――はっ……〟
明智が檄を飛ばすと、人間たちは蜘蛛の子を散らすように走り去り、芦ノ湖に静寂が訪れた。明智は月紫の傷の手当てをしながら、詫びを入れる。
〝――すまないな。今の世は戦国乱世。魔王信長の脅威は去ったが、各地に遺恨が生まれたのだ〟
〝――助けていただき、ありがとうございます〟
〝――なに、聖戦士として当然のことをしたまでのこと〟
胸元の十字架が目に映り、月紫は問いかけた。
〝――聖戦士……あなたはいったい……〟
〝――俺は明智十兵衛。光秀とも呼ばれている〟
月紫は目を瞬かせた。夜だというのに、昼間のように明るい光が光秀の背中に宿っているように月紫には見えたのだ。
〝――十兵衛様……。教えてください。魔王とは、織田信長とは何なのですか?〟
〝――話せば長くなるが……〟
月紫は光秀から魔王信長の存在を教えられた。その魔力で人の世を統べようとしていたこと。斃されたもののいつか蘇ると宣言したこと。月紫が生まれて初めて知
る、恐怖の暴君。それが織田信長だった。
〝――信長はいずれ蘇る。その時のために、俺は――明智家は準備をしなければならない。剣の腕を磨き、子孫へと伝える。伝え続けなければならない。いつか、あの男が音を上げるまでな〟
魔王が蘇れば、魔力が満ちれば、この自然は滅びてしまう。そして、先程のように人間をも狂わせるかもしれない。織田信長。その存在を、許してはならない。
〝――わたしも……あなたの力になりたいです。助けてくれた、お礼を……〟
恩を返さねばと本能が告げた。しかし、光秀は首を左右に振る。
〝――芦ノ湖の精よ。今のお前は幼すぎる。だが、その蛇性はいつか開花するだろう。道成寺伝説の清姫のようにな。その時まで生きろ。生き続けろ。それが、俺への礼だと思え〟
〝――生き続ける……〟
〝――そうだ。いつか成長した時、その時は……俺の子孫を支えてやってほしい。人間からすれば、気の遠くなるような年月だが……〟
〝――わかりました、十兵衛様。それが……わたしがこの世に生まれた理由なのですね〟
月紫は逡巡することもなく決意した。ある種恋慕にも近い感情が、その体を衝き動かしていた。
〝――ああ、頼むぞ芦ノ湖の精……。いや、お前にも名前が欲しいな〟
光秀は顎に手を添え、思案顔。その目に月が映り込む。紫の雲を着物のように纏った美しい月だった。
〝――月が綺麗だな。この湖は。そうだ、月紫。お前は月紫だ〟
〝――月紫……それがわたしの……名前……〟
蛇の――月紫からすればほんの短い一時だった。それでも彼女は一生忘れることのできない、明智光秀との邂逅だった。
光秀と別れた後、月紫は大自然の中で霊力を蓄え、成長を続けた。その最中で月紫は化身する術を身に着け、人間の少女として生活を始めた。北から南へ、街から街へ。月紫は長い時の中で何度も拠点を移し、旅を続け、時にはその霊力を武器に妖怪退治で日銭を稼いだ。その後、相模国を拠点にしていた乱波集団「風魔」の一員となり、その忍びの技術を吸収。風魔の名を語ることになったのである。
それから百年、二百年、三百年、四百年の時が経ち――
月紫はようやく――人間の年齢で言えば十七歳程度に成長を遂げる。
この四百年もの時の中でも、明智家と信長との因縁は消えていないようだった。しかし、次に信長が復活した時には、ついに約束が果たせると月紫はむしろ高揚した。
「オレは『藤沢月風魔』総長――風魔
月紫は時代に合わせて名を変え、髪形を変え、姿を変えて、人間の世界に溶け込んでいた。人間の社会を守るために。その文化を愛するために――
それでもあの時の――明智光秀に救われた時の心は不変。
〝――わたしは必ず、力になってみせる。十兵衛様、天からわたしをお見守りください〟
その思いを胸に、六本木に本拠地のある「天地」の門を叩いたのである。
「クク……クハハ……み、見事でござる……風魔の女子……いや、妖蛇よ……」
四肢を失い、血反吐で死化粧を描いたジャスコ武将の成れの果てが体を塵に変えていく。その恐怖で引き攣った顔に、裸体の見目麗しい少女が映り込む。
「完璧な擬態……まさに、そなたは……忍びの心を持った獣……ガッハ……恐らく、後の世で蘇った時、そなたとまた出会うことになるでござるな……その時は……この雪辱を果たしてみせるで……ござ……る」
そう言い残すとジャスコ武将「玩具売り場」責任者滝川一益の体は雲散霧消。玩具を武器に壮絶な戦いを繰り広げた男の最期だった。
強敵が消えたことを確認した直後、月紫はぺたりとその場に座り込んだ。目尻に涙を浮かべ、盛大な溜息を吐く。
「ああ、疲れました。せっかくお風呂を楽しんで脱皮した気分を味わったのに……本当にこの力を使ってしまうなんて……」
それでも、生き延びることができた。早く、彼女たちや十児と再会しなければ。
「その前に、ベアタンクさんの無事を確認しなければ。その前の前に、服を着なければ。いつまでも裸でいるわけにはいきませんからね。ごめんなさい、安室ちゃん。わたしは別の姿になりますね。えっと、スクールバッグは……ああ、脱皮したわたしの体に絡まったままです……」
月紫が悄然としながらも手順を頭の中で構築。服を纏ったままの皮へと歩み寄り――
「……お主、ルゥナなのか?」
その最中、野太い男の声が耳朶を打った。
「ひゃっ! は、裸の男の人! 変質者ですか? 通報しますよ!」
頬に血の気が集まり、ぴょんとその場で跳ね上がる月紫。咄嗟に胸と股間を隠すが、「……お主に言われたくない」と一刀両断された。
「ベアタンクさん!? そうでした。わたし、忘れていました。ベアタンクさんも脱皮していたんでしたね」
「……聞きたいことは東北の山々のように多いが……その、なんだ。着替えはあるんだな?」
ベアタンクが紳士的にマスクをずらし、月紫の姿を直視しないよう努めた。月紫はほっと胸を撫で下ろす。
「あっはい。では、着替えますね……」
がさごそとスクールバッグから着替えを取り出し、月紫は裸体にそれを纏った。
「ベアタンクさん、もうマスクを元通りにしても大丈夫ですよ。着替えましたから」
「う、うむ」
だが――
ベアタンクは言葉を詰まらせた。着替えたとは言われたものの、肌の露出が激しいままだったのだから。
乳房を覆っているのは白色の下着にも似た衣類。下半身には青いショートデニムを穿き、太腿を大きく露出させている。ブーツの代わりに履いたのはビーチサンダルだ。そのキャッチーでビビッドな姿はグラビアアイドルと言われても不自然ではない。
「……それは、水着だな」
「はい。わたし、泳ぐの好きで……あっ、泳ぐといってもボールプールは勘弁ですけどね。これはソニプラで買ったビキニです。広末涼子ちゃんを意識しているんですが、わかりますか?」
「では質問に戻らせてもらおう。風魔ルゥナよ」
きゃぴきゃぴとはしゃぐ少女を無視して、ベアタンクは真面目な声音で尋ね始めた。
「薄れゆく意識の中で、吾輩は確かに見た。お主が大蛇に化け、滝川一益を蹂躙する様を。あの姿が、お主の本当の姿なのだな?」
月紫は小さく息を吐くと、胸に手を置き、神妙な声で答えた。
「……はい。わたしの本当の名前は月紫……。芦ノ湖に生まれ落ちた精霊……いえ、妖怪と言ったほうが、わかりやすいかもしれませんね。軍荼利明王の真言を唱えることで、封印していた力を解放することができるんです。それが、あの大蛇の姿……」
「…………」
「蛇性を帯びたこの身は、人間よりも長い時を生きています。はっきりと数えたことはありませんが、五七三歳くらいかと。コナミって覚えてください」
「すると、なんだ。お主は織田信長よりも前に生まれていたのか?」
当然の疑問に、月紫は小さく頷く。
「……ええ、まあ。そうなりますね」
〝――うーん、あたしね。小さかったころに明智家に助けられたことがあったんだよねー。そこから恩を感じて、明智家の助けになろうとしたってわけ〟
風呂での言葉を胸に刻みながら、月紫はベアタンクに経緯を話し始めた。
明智光秀に救われ、「天地」に入り、十児と出会ったこと。一般人からすれば嘘八百と言われかねない過去をベアタンクは大人しく受け入れたようだった。
月紫は凛々しい眉をハの字にし、その場でストレッチ。
「……早く、他の人たちと合流しましょう。特に、わたしは十児様が心配です。あの人は、わたしが……守らないと……。それが十兵衛様との約束ですから……」
「『十児様』か。まったく、何から何まで別人のようだ。お主のあのギャル姿は、ポーズだったんだな?」
そう尋ねられ、月紫は口元に手を当てくすくすと笑う。
「忍びですから。現代の女子に化けていたんです。ま、たまーにですが、ボロが出てギャルっぽくないことを言ったかなーっと、ちょっと反省していますが。それと、あの女狐……いえ、ジャスコ姫には見破られそうになりましたね……」
〝――ふうん、可愛い子。だけど、あなたも私と同類。化粧が上手なのね〟
ジャスコ姫は信長並に危険な存在だ。同類だと言うのなら、必ずその正体を暴いて見せる。月紫は決意の炎を燃やし続けた。
「……そうだ、吾輩たちの敵はまだ残っている。他の者たちも恐らく織田四天王と交戦中だろう。吾輩は彼らの力を信じている。必ず勝ち抜き、合流できるはずだ」
ベアタンクが組んでいた腕を解き、月紫に背中を見せ歩き出そうとする。
「はい、そうですね。では、急ぎましょう」
ジャスコ武将との戦いで見事に姿を変貌させたベアタンクと月紫。二人は疲労を感じさせないほど勇ましく「玩具売り場」を飛び出し、通路へと足を進めた。
その最中、雄々しい筋肉の塊を眺めながら、月紫はほっと息を吐く。
「はあ……しかし、わたしの秘密を見たのが、ベアタンクさんで本当によかった。ドリアさんなら『脱皮とか人のこと言えねーじゃねーか馬鹿野郎』とか言いそうです。ハマさんも頬を膨らませてからかってくるに違いありません」
〝――では、ルゥナサンも秘密があるというコトですネ〟
中国の仙術使いハマと出会った時の会話を思い出す。ジャスコ姫同様、謎の多い彼女だ。
月紫はにっと口端をわずかに上げた。
「でもお互い様。きっと、あの方もとんでもない秘密を持っているでしょうね」
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