第20話 無間地獄

 長く引き伸ばされた時間の中から、松田の意識は回帰する。


〝――ああ、夢やなくて、これが現実なんやな。原口……〟


 目の前に魔狼が迫る。次の一手が振り下ろされようとしている。

 だが――

 松田は間欠泉のように噴き出す血と一緒に、胸元から弾け飛んだ「それ」に気付いた。

 あの日、原口がポケットに入れた【魔滅袋】――その封が凶刃によって切り裂かれ、中身が散布されていたのだ。粉雪のように舞い散る中身は確かに芳香剤のようにかぐわしかった。

 そして、松田の首元に爪が突き刺さろうとした瞬間――

 魔狼は力無くその場に沈み込んでしまった。体を痙攣させ、口からは涎を流し続け、まさに俎板の上の魚のような力のない無様な姿だった。


「おや? おやおやおや? どういうことだい? 何が起きたんだい?」


 異変に気付いた堀秀政が目を瞬かせる。


「ははっ。おおきにな、原口。お前のおかげや」


 大量に出血しながらも、弁慶のようにしっかりと大地に立った松田が、仇を見下ろす。


「所詮犬ッコロってわけか。鼻の良さが仇になったみたいやなァ」


 狼は【魔滅袋】を嗅いでしまった。魔力を受けたことと、嗅覚に優れた種であることの二重苦により、その効果は絶大。体の機能の大半が麻痺してしまったのだ。


「存分に礼をしたるわ、このクソ犬がっ!」


【神梛刀】をしっかり両手で握り締め、力強く大槌のように振り下ろす。その初撃で狼の頭蓋は割れ、昏倒したのだが、お構いなく追撃を加え続ける。


「ああっ、なんてことを! 私が助けなければ――」

「そうはさせない」


 狼を癒そうと駆け出す堀秀政の行く手をフィールが遮った。

 手にした【オズサーベル】が聖騎士の覇気とエーテルに応じ、エメラルドの輝きを宿す。


「自慢のペットを失えば、お前はただの魔人だ。故に、この聖剣によって、断ち切る」

「ふふ……。私はジャスコ武将なのだよ。商品を失ったからといって、私が無力になったと思い込まないことだ」


 堀秀政はフィールを前に怯むことなく、エプロンのポケットからぎらりと輝く二枚刃を取り出した。それは鋏だった。堀秀政はまるでシリアルキラーのようにかちゃかちゃと音を鳴らし。鋏の刃の開閉を続ける。


「『ジャスコペット』はトリミングも行っているからね。騎士様の体を美しく刈り取ってあげよう! ジャスコ術――〈ビューティフルライフ〉!」


 堀秀政の魔力が迸る。フィールの周辺の空気の流れが変わる。鋭く、研ぎ澄まされた風の刃。それが鋏状となってフィールの体を刈り取ろうとし始めたのだ。


「ッ!」


 鋭い不可視の刃がフィールの髪、肌を裂き、裂傷を赤く浮かび上がらせる。


「あっはっは! さあ、美しくなあれ」


 だが、堀秀政の高笑いが響き渡った瞬間。


「ん? あれ?」


 その首がぽろりと体から外れ、芝生の上に転がり落ちた。


「〈六枚翼竜の竜巻〉」


 体を失った堀秀政が目にしたのは、身を屈め、真一文字に剣を振っていた聖騎士の姿だった。


「エーテルを凝縮させた風の剣技だ。お前のジャスコ術とやらも巻き込み、風の斬撃に変えた」


 心臓の鼓動のように刀身が点滅を繰り返す【オズサーベル】。その聖剣を鞘に収め、フィールは侮蔑を込めた瞳で堀秀政を見下ろした。


「遊びは終わりだ、堀秀政」

「あーあ、ここまでか。でもまあ、楽しかったよ。騎士様にヤクザくん」


 首だけになった堀秀政。その切断面から頭に向け、徐々に灰のように崩れては消え始める。しかし、敗れたというのにこのジャスコ武将には諦念が微塵も感じられなかった。


「だけど、信長様に会おうと思えば、さらに地獄を味わうことになるよ。私はこれでも下位のジャスコ武将だからね」


 虚勢とは思えない言葉だった。あれだけ猛威を振るった堀秀政すら、数あるジャスコ武将の中でも下位なのだという。フィールが神妙な眼差しを堀秀政に向けたとき、「キャウンッ」と鳴き声が響いた。


「……ハッ。地獄で結構。ワシらは六道会や。相手が魔王だろうが信長だろうが、ジャスコ武将だろうが無間地獄を見せたるわ」


【神梛刀】の猛襲を受け、絶命した魔狼の体を踏みつけながら、松田が唾を吐く。


「では私は先に地獄で待っているよ。君たちが来るのを楽しみにしているからね」


 堀秀政の体が消滅する。最期の一瞬までジャスコペット店長は笑っていた。

 それは残りのジャスコ武将の力を、信長の力を信じているからなのかもしれない。

 そして、ぐらりとフィールと松田の見ている世界が大きく歪む。


「おっ。ジャスコの中に戻ってきたで」


 ジャスコ術の結界が破れたようだ。騎士も極道もひとまず安堵する。


「退魔グッズとやらが反撃の糸口になったのか。松田、出血が酷いようだが、大丈夫なのか?」


 そう訊かれた松田のスーツは大きく裂け、血でびっしょりと濡れていた。しかし、当の松田本人はピンピンしている。


「こんなもんかすり傷や。ワシは体が頑丈やし、血もすぐに止まるわ。そんなことよりも、あいつのとこへ行かなな」


 松田がくるりと身を翻し、歩き始めた。

 その先にあったのは、無残な姿となった六道会の男。


「終わったで、原口」


 松田は今一度、原口の亡骸へと歩み寄り、膝を着いて黙祷したのだった。


「原口の仇は取った。ワシらは必ずこの街を取り戻すからな。安心して眠っとき」


 普段は怒りに震える男の、どこか父性に満ちた表情だった。フィールは小さく微笑む。


「それと、お前が使えんかったグッズ、貸してもらうわ」


 松田は原口のズボンから「退魔グッズ」を抜き取ると、自分の懐へと忍ばせる。立ち上がったあと、ズボンを叩いた松田はフィールと向き合った。束の間とはいえ、死線を重ねることとなった相手は真剣な眼差しを向けている。その表情に、マフィアと呼んでいたときの嫌悪の色は見られない。


「松田。こうなった以上、僕たちは進み続けるしかない。僕たちは協力しなければならない。だから、騎士道は一旦置いておいて、僕は松田の組織の一員となることを受け入れよう」


 ジャスコ武将の脅威を感じ、フィールは騎士の矜持を捨て、一人の人間として極道である松田と協力する道を選ぶと言うのだ。その言葉を聞き、松田はにっかりと歯を見せて笑った。


「ええやないか。ワシらは今から兄弟や。ジャスコを乗っ取ったアホらに、目に物見せてやるで」

「……しかし、僕たち二人だけではこの魔城を攻略するのは難しいかもしれない。ジャスコ武将も多く残っていることだろう。できれば、まだまだ仲間が欲しいところだ」

「こうやってワシらが出会ったんや。もしかしたら、先に進めばまた物好きが見つかるかもしれん」


 物好きと聞いてフィールの青い瞳に希望の光が宿る。


「……そうだ。他の有名な退魔師も日本を目指したという噂があったな。ビー兄妹やネメシス……。それに沈陸徐蛮も動くだろう、と。彼らと出会うことができれば、あるいは……」

「よし、そいつらも六道会に誘って、魔王をボコる。それで決まりやな」

「慎重に探索し、敵を撃破しつつ仲間を見つける……。まさに、ゲームのようだ」


 今一度フィールはダイスを振る神の姿を夢想する。

 残酷な戦いを強いる神だ。その神に向かってフィールは祈る。

 できることなら、他の退魔師も無事でいてほしい、と。

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