第12話 闘気散らして
熊。
直立している二メートルほどの体躯の熊。大自然の申し子として、圧倒的な存在感と野生味を放つこの生物がアンナとネメシスの前に嵐のように乱入してきた。
「闘気に導かれて訪れてみれば、このような修羅場だったとはな」
熊がテノール歌手のような声音を出し、この惨状を凝視する。
聞き間違いではないようだ。
普通、熊は喋らない。ならばやはり、悪霊か神の使いの類なのか。混濁する意識の中でアンナがそう結論付けようとしていたとき、彼女は熊の頭の下半分から肌色の顎が見えているのを発見した。
そう、厳密には熊そのものではない。
人間が熊の皮を被っているのだ。
「誰よアンタ! データにない
愛機アレキサンドリアを転倒され、激昂するネメシスが熊に向けて指を差す。
熊は腰に手をあて、
「吾輩の名はベアタンク。吾輩より強き者と手合せを願いたく、このジャスコに足を踏み入れた」
貫録のある声でそう名乗った熊もといベアタンクである。
「……そう、アンタの狙いも魔王ってことね。だったら、アタシとも戦ってく・れ・る?」
「断る」
ベアタンクは即答した。
「お主からも、そこのコケシからも強き闘気を感じられない。故に、戦うに値しない」
そう言うとベアタンクは座り込んでいるアンナに手を差し伸べる。
「立てるか?」
「え?」
きょとんとしているアンナの目に、優しげな熊の顔が浮かび上がった。その黒い瞳のあるべき場所には、人間の瞳が宝石のように輝いている。
「生き残りたければ、吾輩と共に行くといい」
「アンは……でも……」
アンナは声を奮わせ躊躇した。果たして、兄無き世界で生きて未来などあるのだろうかと。
そこへ、
「もーゥ、アタシを無視して、メルヘンな空気出さないでよん! アレキサンドリアちゅあん! 二人纏めて、焼き殺しちゃって!」
地団太を踏むネメシスに応じ、アレキサンドリアが器用に足を使って起き上がる。そして、再び目が発光。死を招く高熱が今まさに撃ち出されようとしていた。
「ならば、強引にでも連れて行く」
「わっ」
時間がないと判断したのか、ベアタンクが両腕で動かないアンナを抱え、丸太のように太い足でどすどすと音を立てながら通路を駆け出した。
「逃がさないわよッ!」
ネメシスが指を差せば、モアイの目からビームが放出。その毛皮に包まれた背中ごとベアタンクの体を貫かんとする。しかし、ベアタンクは瞬時に身を屈め、その熱光線を完璧に回避してみせた。
「何アイツ。背中に目でも付いてんの?」
ネメシスが唇を噛み締める。アレキサンドリアのビームから逃れられた獲物を見るのは初めてだったからだ。
「性能の調整が必要なようね、覚えておきなさい! ベアタンクちゃん! 次に会ったときは、必ず殺すわよ!」
ネメシスに大声で喚かれ、アンナは思わず耳を塞いだ。その捨て台詞を聞き、ベアタンクは静かに「もう会うことはない」とだけ呟いたのだった。
ネメシスから逃げ切ることができ、ベアタンクはジャスコ城の通路の角にアンナを下ろすと一息を吐いた。
「ここまで来れば安全か。少なくとも、あの火を吹くコケシからは」
少なくともと言ったのは、もちろんここが悪鬼蔓延る魔城だからである。二人に気付いた髑髏や鬼が辺りから現れ、今まさに歓迎しようとしていたのだ。
「なぜ、アンを助けたの、熊さん」
そんな魔物たちを無視して、アンナはベアタンクに質問した。
「吾輩は強き者と戦いたいと言ったはずだ。まだまだ若いお主には、その素質がある。だから、死なせるわけにはいかないと、野生の勘が告げたのだ」
アンナに答えながら、魔物を迎撃すべくベアタンクは両腕を伸ばし、攻撃の構えを見せた。
「イラッシャイマセッ!」
ベアタンクに向けて髑髏がショッピングカートで突撃を仕掛けるが、
「〈ベアナックル〉!」
熊の拳がその頭蓋骨を粉砕する。アンナは驚愕した。精霊の力が宿る【リゲムチャ】の演奏でやっと浄化できる魔物を、このベアタンクは拳だけで対処しているのだから。
「……熊さん、アンと同じ、退魔師?」
「そう名乗った覚えはないがな。吾輩は東北のレスラー、ベアタンクだ」
雷光のごとき強烈な回し蹴りで背後にいた髑髏を一蹴。さらに所持していたカートはチョップで両断された。
まるで荒れ狂う嵐が熊の姿をしているような強さだった。
「でも、浄化できている。なぜ?」
「さてな。大自然で修業を重ねるうちに、この能力が身に付いたのかもしれん」
「どういう……こと……?」
間違いなく、ベアタンクはアンナが出会った人物の中でネメシスに比肩するほどの飛びっきりの変人だった。けれども、その心は誰よりも温かいように感じる。父や兄と一緒にいるときのような安らかさがベアタンクにもあったのだ。
「このジャスコは面白い。このように異形の者と戦えるのだからな」
カートラックでベアタンクを轢き殺そうと鬼が襲い掛かるが、
「〈ベアトルネード〉!」
体を大きく回転させたラリアットがカートラックごと鬼を弾き飛ばす。すかさずベアタンクは膝を曲げ、バネのように勢いよく飛び上がると。
「〈ベアボンバー〉!」
その全身を使って鬼を押し潰した。
ほんの一分も経たずに周囲の魔物は全滅。ジャスコ城に再び静謐な時間が訪れる。
「さて、進もう。我が闘気が、この先に強敵が潜んでいると告げている。おそらくは、このジャスコの主に連なる者だろう」
「魔王の、手下?」
魔王と呟いたとたん、ベアタンクの黒い眼窩の奥で何かが光った。間違いなく、中の人間の目に興味の光が宿った証だ。
「お主は、この悪鬼の巣窟となったジャスコのことを詳しく知っているようだな」
「うん。ジャスコのことはよくわからない。けど、魔王のことは知っている」
「なるほど。このジャスコの主がその魔王か」
アンナは驚愕する。まさかとは思ったが、この熊の皮を被ったレスラーは、建物を支配しているのが魔王信長と知らずにここまで来たらしい。ならば、その首に賞金が賭けられていることも知らないのだろう。
「魔王は――」
アンナが魔王の情報を伝える。かつて日本を支配しようとしていた武将、織田信長であること。このジャスコを城として蘇ったこと。それらを耳にすると、どう操作しているのか熊の丸い耳がぴくぴくと動き、ベアタンクは声を上擦らせた。
「なんと、このジャスコを支配しているのは、織田信長だったのか。天主がくっついていたが、あれは元々の設計ではなく、信長の力で作られたと……。何と奇怪にして面妖な。それであのようなコケシ使いまで乗り込んで来たのだな」
「……本当に、知らなかったの……?」
「ああ。闘気に導かれただけだからな」
腕を組んで豪快に笑いながらベアタンクは答える。
「さっきから言っている、闘気って何……?」
「闘気は闘気だ。そうとしか答えられんが。この闘気を高めれば、いろいろなものを感じられるし、技の冴えもよくなるのだ」
「……アンのマナに似ている、気がする。それが、熊さんの武器なんだ?」
「応よ」
ベアタンクが握り拳を作った。
ぞわり、と。
確かに、【リゲムチャ】にマナを込めるときのような感覚を覚え、アンナの鳥肌が立った。
〝――これが……闘気が魔物を浄化できた理由……。この熊さん、変だけど、退魔師でもないけど、強い。ドンナのような安心感もある……〟
「ドンナ……ッ……」
兄のことを思うと、自然に涙が溢れた。とめどなく流れる悲しみの雫がジャスコの床を濡らしていき、小さな水溜まりになろうとしている。
すると、ぼふんという音と共にアンナの視界が真っ暗になり、涙が拭き取られた。
ベアタンクの毛皮だった。
「……兄を失ったのだったな。ならば、吾輩の腹の中で好きなだけ泣くがいい。泣き切ったあと、残るのは精悍な顔だけだ。お主は、強くなれる。吾輩を信じろ」
「ありがとう、熊さん……うっ……」
メラネシアの少女と、東北のレスラー。出会った二人が進むべき道は戦いしかない。
生き残るために、生き残れなかった者のために、二人は魔王を目指す。
そして、奇妙な出会いが訪れたのは……
ノブナガハンター明智十児も例外ではなかったのである。
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