△8二 飛躍
再び犯人の立場に戻ろう。道端で会った女子高生に確実に睡眠薬入りの飲食物を摂取させる方法は何か。正直言って、ハンナさんなら割と与えれば食べそうな気がしてしまうのだが、憶測だけでは心許ない。
睡眠薬まで準備しておいて、そちらはノープランとはいかない。確率を上げるには、とりあえず車内に入れてしまう事だろう。下校途中で貰ったものをその場で食べるかどうかは分の悪い賭けだが、車内で二人きりになった状態で差し出されたなら、出された方も飲み食いしやすい。例えば、相手がその場で缶の蓋を開けてから渡してきた缶飲料に、喉が渇きそうなお菓子のセットならどうだろう。アルミ缶の蓋なら、もう戻せない。返すわけにもいかないし、折角だからいただきます、といきそうだ。
車内に連れ込んだ方法はなんだろう。相手は大人で、恐らくは男性だ。土曜日に出会った大人は、全員が男性だった。流石のハンナさんも女子として警戒をするはず……するかな、いやいや、するだろう多分。それでも彼女は車に乗った。
今、もっとも彼女が興味をひかれている話題は、兄とその親友との喧嘩について。その秘密を教えると言ったのではないか。これなら確実に乗ってくる。
将棋の集まりのメンバーは高槻さんから相談を受けて聞き知っているかもしれないし、纐纈先生は僕が話したので知っている。コンビニの店員と纐纈ハイツの老人は知らないだろう。これ以外でも彼らには興味を引けそうな話題がない。除外していい気がしてきた。もっとも、僕も二条ハンナの趣味嗜好を事細かに把握しているわけではない。彼女の興味を引く確実な話題は、きっと他に幾らでもある。幼稚園児を攫うように、両親の怪我を理由に呼び込んだって成立するかもしれない。この推理は参考程度で留めておくのが妥当と言えそうだ。
次に睡眠薬。推理できる限りの車内状況から、誘拐したハンナさんを大人しくさせるために必須のアイテムだ。ハンナさんからの発信と無言の矛盾も説明できるので、この線は固いと僕は踏んでいる。
速効性で強力な睡眠薬というものは、しかし、容易に手に入るのだろうか。薬局で売られている睡眠導入剤は、何というか、悪用されない緩やかな効き目のイメージだ。どうやって手に入れたのだろう。道徳公園との関連付けから、犯人が秘匿したい何かを見られたのが土曜日。しかし犯人は即日ハンナさんを誘拐してはいない。躊躇したか、その時はまだ疑いの段階で、二日の間に疑惑と恐怖に圧し潰されたのか。
ハンナさんが全く事件性を認識していなかった点から、僕は犯人の疑心暗鬼説を推したい。けれど、そうであれば、犯人が速効性の強力な睡眠薬を用意する時間は2日よりも更に短くなる。ネットで違法に買うにも土日を挟んで郵便が間に合わないだろう。ではどうやって。この疑問への回答は一つ。犯人は最初から睡眠薬を処方されていた。しかも、速効性で強力なものを。
犯人が重度の不眠症を患っているとすれば、大きなストレスを抱えている証拠に等しい。ストレスの原因が焼死体に至った殺人なのかもしれない。だが、それだと少し期間が短すぎるか。
茂木さんが焼死体となって発見されたのが先週の金曜の明け方。少なくとも、池さんは事件が発覚した前の週に生きた茂木さんと一局指したと証言している事から、茂木さんは焼死体となって発見される一週間以内に殺されている。僕に薬学の知識はないが、犯行後にストレスで不眠症になって精神科に行ったとしても、いきなり処方される薬にしては強力すぎるのではないか。やはり、それ以前から処方されていた可能性が高い。茂木さんと以前からトラブルがあったか、この事件とは別に問題を抱えていたか、そこまでは分からない。
気付けば呼吸するのを忘れていて、僕は大きく深呼吸した。エンジン音がずっと遠くから聞こえる。心臓の鼓動がうるさい。
僕は自分で意識していたよりも長く、そして深く思考の中に潜っていたらしい。突然現実世界へ肉体が追い付かなくて、自分だけが加速している錯覚の中に意識があった。まだ無意識の思考がバックグラウンドで続いている感覚がある。長手詰めを解こうと潜った時より、ずっと不安定な状態だ。そもそも解決に至る道筋なんてないかもしれない。犯人の気まぐれや、未発見の情報一つで、ここまで考えてきた事すべてが徒労でしかなくなる。
でも、そんな事は慣れている。
自分の読みが外れるなんて将棋では日常茶飯事だ。
報われないかもしれない展開を、いつも読み続けている。
思考が飛躍し、僕は自分がマニュアルで操作できる意識を越えたところにいた。僕が見下ろしている視界の中にも僕がいて、両手で湖から何かを掬っている。僕は直感的に、それが答えだと分かった。けれど、まだそれは言語化できない。
光り輝いていて、水のように不定形で、両掌の隙間から零れ落ちてしまう。早くそれを持ってきてくれと空の上から僕が、僕に向けて叫んでいる。
気付けば、俯瞰していたはずの僕を、更に遠くから僕は眺めていた。僕はどこまでも連続して僕を客観視している。遡りを繰り返して、僕の意識が戻ってきたのは、タクシーが停車した時だった。
「おい矢吹。大丈夫か?」
熊田さんに肩を揺さぶられて、僕はようやくはっきりと肉体と精神が一致した感覚を得られた。タクシーが走っていた間のことが夢のように記憶から抜け落ちて、まるで学校から突然道徳公園までワープしたような気がする。
「すみません、ずっと考えてて。今出ますから」
自動で開いた扉から外に出る。雨が降っていたのを忘れていて、小粒の雨が首筋に落ちた。急いで傘を開き、先輩たちが出てくるのを待つ。
沿道に他の車はなかった。側溝から雨水の流れる音が聞こえる。
「マップだとこの辺りにあるはずだ」
「電話しろよ。電源切ってなきゃ鳴るだろ」
バルトシュさんに向けて高槻さんが言った。二人の会話は端的で、必要最小限のものでしかなかったが、それで通じ合える関係性を表してもいた。
バルトシュさんがハンナさんのスマホ宛に電話する。最初のコール音が聞こえて、次のコール音が鳴るまでの時間がとても長く感じられた。道徳公園を周回する歩道に並ぶ街灯が、僕たちを照らしている。対照的に公園内は昏く、不気味な闇の空間が広がっていた。
聞き覚えのあるメロディが、微かに聴こえた。
熊田さんが素早く生垣に飛び込む。
「ありましたよ、これだ」
熊田さんが掲げたスマホから、メロディが鳴り続けている。そのカバーはハンナさんが所有するスマホと同じものだ。やはり捨てられていた。
「スマホは見つかったが持ち主は影も形もなしか。とりあえず、警察だな。事情聴取された時に名刺を貰ってるから、その刑事にするわ」
「私も両親にも掛けるよ。これ以上は追いかけようがない」
警察を呼んで間に合うのか。その疑問を口に出すのは憚られた。それでも通報のタイミングとしては、今ここが最速だろう。僕たちは最善を尽くした。しかし、この場の誰もが同じことを思っていると分かる。幾ら警察でも、手掛かりなしで行方不明者を探し当てるなどという芸当は不可能だ。辿り着くよりも前に、二条ハンナは口封じされるだろう。
「すみません。俺が、バルさんの妹を勧誘しろなんて言い出さなければ、こんな風に巻き込んだりしなかった」
熊田さんが突然頭を下げた。とても責任があるとは思えない。こんな事態を予想できるわけがないからだ。しかし、そうせずにはいられなかったのだろう。バルトシュさんは傘をささず濡れたままの熊田さんの肩に手を置き、ハンナさんをスマホをじっと見つめた。
「君のせいじゃない。それを言い出したら、そもそもが私とタカに原因がある。誰かが悪いというなら、それはハンナを誘拐した人間が悪いんだ」
「あの」僕は一歩踏み出した。
このままでは待ち受ける悲劇を呆然と待つしかない。ここで言わなければ後悔する。僕は自分に言い聞かせながら、次の言葉を探した。
「タクシーで、向かってほしい場所があるんです。そこにハンナさんがいるかもしれない」
「分かったのか、どこにいるのか!」
「確信はありません。でも、もしかしたら」
「指さずに切れ負けよりマシだ」
高槻さんの言葉に、他の二人も頷いた。
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