▲8三 呪詛
雨が止み、ワイパーも止まった。けれど薄くなった雨雲の向こうに太陽の姿はない。気付けば日没の時間をとうに過ぎている。タクシーを降りたその瞬間、街灯が自身の役割を思い出したかのように足元を照らし始めた。
警察には高槻さんが電話した。電話越しに相談した声色が、恐らく学校で事情聴取を受けた時とは全く異なる真剣なものだったからか、高槻さんに名刺を渡した刑事は想像よりも熱心に話を聞いてくれた。
すでにパトカーはこちらに向かっている。本来なら僕たちは警察を待つべきで、後は警察の仕事だ。頭では理解できる。だが、持ち主を失ったスマホしかない状況で、一体何になるというのか。
最後の足掻きとして僕が選んだ場所にハンナさんがいなければ、あとは全てを諦めるしかない。
「じゃあ、押すよ」
バルトシュさんがインターフォンに指を置いた。
「すみません、まだ説明が全部は」
「いいんだ。一秒でも早い方がいい。違っていても状況に変化はない」
インターフォンが押される。すぐに応答はなかった。しかし、明かりが点いているのは外からでも分かる。中にいる人物も、居留守は無意味だと悟ったのだろう。やがて扉がゆっくりと開いた。白いカッターシャツを着た人物が半身を覗かせる。
「一体、何の用だ」
街灯の光はうっすらとしか届かない。しかし、それでも重苦しい声を発したその人の目が充血し、震えているのが分かる。尋常でない精神状態にあるのは一目で分かった。
「将棋がしたいな、と思ってさ。やろうぜ、将棋」
高槻さんが一歩前に出た。物怖じしないというより、開き直っているようだった。タクシーの中で、もし間違っていたら怒られてやるよとは言われている。しかし、今の高槻さんは明らかに僕たちの盾としてそこに立っていた。
「ふざけるな、私はやらない。帰れ、迷惑だ」
「つれない事言わないでくれよ。泣いちゃうだろ。それとも見せてやろうか。高校三年生の本気の駄々ってやつを」
格好いいのか悪いのかよく分からない台詞を言いながら、高槻さんは更に前へ出た。いきなり距離を詰められて、扉を掴んでいた人物が半歩下がる。僕も、バルトシュさんも熊田さんも一歩踏み込んだ。僕たちが知りたいことは一つだった。まだ、二条ハンナは生きているのかどうか。
勝算はあった。相手は職業的な犯罪者ではないし、快楽殺人者でもない。その行動はあくまでも自身の利益を守るために実行されている。ハンナさんの誘拐に関しても、あくまで予防的な措置だ。即座に殺人の判断を下せるとは思えない。なるべくなら、殺したくはないはずだ。それに、もし殺すとしたら――
「一つ質問させてください。もし、それが僕の推理と外れていたら、僕たちは大人しく帰ります」
「お前は」充血した目が僕を捉えた。
「ハンナさんが何を見たのか。何故貴方が疑心暗鬼に陥ったのか」
純粋な確率は三分の二。しかし、細かな条件を加えればもっと高い。ハンナさんの言葉が指し示すものについて、僕には確信があった。
「洗濯機の下に落ちていたのは、裏を向いた金将ですね?」
時間が停まったかのような静寂があった。
誰もその場を動かず、お互いに睨み合ったまま。
やがて、膠着状態を破る一言が纐纈先生の口から漏れた。
それはほとんど肯定と同じ意味だった。
「聞いたのか」
「いいえ。ハンナさんは喋っていません」僕は首を振った。「帰りに黒木さんが何を見たのか訊いても教えなかった」
纐纈先生の呼吸が荒くなり、扉の向こうの影が上下する。
「これは想像ですが、見えない箇所、つまり表面に茂木さんの血が付着していたのではないですか」
最初から条件は絞られていた。洗濯機の下に入り込むぐらい小さいもの。そこに落ちていることが不自然なもの。重要な鍵はハンナさんがお礼を受けて返した言葉だった。どちらか分かりませんが。それは判別不能な二種類の存在を意味する。
将棋の駒のうち二種類が判別不能な駒は、何も書かれていない王将と金将の裏面だけだ。竜王と馬の崩し字でも、成桂と成金でもない。視力のいい彼女なら区別できる。
「タクシーの中で何かまでは聞いたけど、でも他のものだってありえるんじゃないのか。どうして纐纈先生が……」
熊田さんが尋ねた。まだ目の前の存在を信じられない様子だった。
「ハンナさんが僕たちの前で耳打ちして先生に伝えたからです。始めはプライベートな空間で見つけた何かへの配慮だと思っていました。でも実際は、僕たちに伝わると先生にとって不都合だから気を遣ったんでしょう。先生は、将棋仙人、つまり父親が脳梗塞と認知症になって、将棋盤も駒も全て処分したと仰っていました。あの時、高槻さんは声の届く範囲にいたし、後で僕たちから伝わってしまえば、その嘘がばれてしまう」
最後の条件は、ハンナさんが僕たちに教えない理由があったもの。この条件が加わってようやく、僕は彼女が見たものに辿り着いた。
「ハンナさんを誘拐したのは悪手でしたね。それがなければ、逆算できなかった」
何もするべきではなかった。そうすれば、誰も知らないまま時間が流れただろう。悪手は咎められて初めて悪手になる。だがそれも結果論だ。もし辿り着けなければ、なすすべなく絶望を受け入れるしかなかった。
「考えたんです。洗濯機の下なんて見えにくい場所に金将が裏向きに落ちていて、しかも血が付いていたのなら、そこで一体何が起きたのか。それを焼死体の事件の発覚に繋げられる想像ができてしまうのは、犯人しかいない」
「何を馬鹿な。私はただ、お前たちが突然押しかけて来たから困惑しているだけだ。確かに言われた通り、将棋の駒が落ちていた。だが、あれは私の父が」
「いいえ」
それを口にするのは勇気が必要だった。ここを誤れば詰み逃す。手駒の全てを使い切って得られた結論を、あとはひたすら並べていくしかない。
「貴方の父親はもう死んでいる」
生温い風が吹いた。湿り気を帯びた空気が、肌をなぞるように通り抜けていく。僕たちは足元に地雷が埋まっているかのように、その場を動けなかった。纐纈先生の一挙手一投足を慎重に見張りながら、同時に自分たちも見張られていた。先生は目を見開き、口を半開きにしたまま僕たちを嘗め回すように観察していた。
「将棋仙人は寝たきりなんじゃなかったのか。それに、向かいのアパートの住人が春頃に米寿の祝いで見たって言ってたろ。その後に死んだのか」
「恐らく亡くなったのはもっと前です。公園に来なくなったのが三年前ですから、多分その頃に」
「なら、目撃されたのは」
「米寿の祝いを受けたのは茂木さんだった。そうなのではありませんか?」
バルトシュさんが言いかけた続きを補足する。僕の問いに纐纈先生は答えない。しかし、じっと僕を虚ろな目で捉えていた。
その時、家の奥からガタンという音が聞こえた。何か大きなものがぶつかったような鈍い響きだった。
「ハンナさん?」
僕は大きな声で呼びかけた。また、ガタンと鈍い音。
「先生、そこどいてくれよ。もし俺たちが家の中に入って、将棋仙人が寝返りうってただけなら謝るからさ。二条ハンナが、こいつの妹が今、誘拐されたみたいなんだ。もうすぐ警察もここに来る。先生にならどっちみち相談できると思ったから」
高槻さんが更に一歩、玄関に踏み入った。
纐纈先生の目も口も小さく動いている。しかし、僕たちの存在は無視されていた。魂が抜けたよう立ち尽くしたままだった。
すっと纐纈先生が背中を見せた。何も喋らない。拒むわけでも認めるわけでもなく、黙って家の中に消えていく。
「入ろう」
バルトシュさんがそう言って玄関にあがり靴を脱いだ。一番ハンナさんを心配しているのは兄である彼なのだ。高槻さんを追い越して、バルトシュさんが先頭に立った。僕と熊田さんも後に続く。
普通の民家でしかない纐纈家の廊下から、永遠に繰り返すバグのような違和感を覚える。僕の恐怖心がそう錯覚させているのだろう。奥へ進むほど、真実に近付いてしまうから。
纐纈家の玄関からは真っすぐに廊下が伸びている。手前の左に小部屋があり、先には居間に繋がるらしい扉があった。擦りガラスが嵌め込まれて中の様子は分からない。纐纈先生はその中に入っていった。廊下の途中、右手に洗面所があった。すぐ隣に洗濯機、その奥に風呂場。反対側にトイレがある。洗濯機は排水用のスペースに置かれて、隙間に影ができていた。
また大きな物音が響いた。風呂場からだ。咄嗟に身構えたが、何かが飛び出して来る気配はない。
恐る恐る僕は風呂場の扉に手をかけた。思い切って一気に開く。バスタブは蛇腹状の蓋でほとんどが閉じていた。僅かな隙間に蛇口から水が流れ落ちている。少しだけ覗いた中に、何かいた。一歩入ると金色の髪が見えた。
「ハンナさん!」
青い瞳が僕を認めると大きく見開かれ、瞳が潤んだ。
「ハンナ!」
バルトシュさんが僕の後ろで彼女の名を呼んだ。すぐに風呂の蓋をどかし、全身が露わになる。ハンナさんの半身はずぶ濡れになっていた。猿轡をされ、両手両足が布で縛られている。おでこが赤く腫れている。僕たちの存在を感じ取って、必死でバスタブにぶつけて音を出したのだろう。
猿轡を外すとハンナさんは大きく咳き込んだ。
「纐纈先生が、私を」
「大丈夫。助けに来たんだ」
「怪我はないか。ハンナ」
ハンナさんは嗚咽を漏らしながら頷いてみせた。恐怖から解放された安堵が涙となってとめどなく溢れている。
「おいおいおい、それはちょっと不味いな」
廊下から高槻さんの声がした。熊田さんも「落ち着いて」と呼び掛けている。人間の気配はもう一つあった。風呂場を出て廊下側を見ると、熊田さんと高槻さんが居間のある方を向いて構えていた。ゆっくりと後ずさりしている。その視線の先に誰がいるかは明白だった。
僕も廊下の直線に戻る。居間に繋がる扉の前に纐纈先生が立っていた。視線は定まらず、呪詛のように聞こえないほど小さな声で何かを呟き続けている。その手には包丁が握られていた。鈍い光を湛えた包丁の切っ先がこちらを向いている。
「纐纈先生、無茶です。一人刺しても他の三人に捕まる。すぐに警察も来ます。これ以上罪を重ねないでください」
祈りに近い呼び掛けだった。纐纈先生に届いているかは判然としない。固く握りしめられた包丁は小刻みに震えていた。
「もう私は、ずっと前から、だから燃やしてしまおうと」
纐纈先生が紡ぐ呟きが、かろうじて聞き取れた。しかし意味を汲み取れない。それは独白のようであり、懺悔にも似ていた。分裂した破片のような言葉が纐纈先生の喉の奥から涎と共に這い出ていた。
「矢吹、どけ」
不意に後ろから肩を掴まれ引き倒された。
視界が揺らぎ天井が見える。
僕の名を呼んだのが熊田さんの声だと認識した瞬間、床を蹴る音が響く。転びそうになって、身体を捩じった。壁にぶつかる。熊田さんが走った。高槻さんも重なるように。駄目だ、危ない。叫びは声にならなかった。態勢を立て直して纐纈先生の方を向く。その一瞬、僕は自分の推理した内容を幻視した。ここだ。この廊下で茂木さんを殺した。
廊下に倒れ込んだ纐纈先生と二人の先輩が乱闘になる。
しかし力の差は歴然だった。というよりも、纐纈先生はなすがままに見えた。背骨が抜けたように力が入っていない。熊田さんが腕の関節を極め纐纈先生が抑え込まれている。高槻さんが足を抑えながら、腕を伸ばして包丁を掴んだ。
その時、僕は人間の奥底から響く悍ましい声を聞いた。
纐纈先生の口から出てきたその音は、もはや言葉ではなかった。
叫びや怒号でもない。暗い感情が凝縮されて吐き出された何かだった。
その後、すぐにバルトシュさんも加わって、纐纈先生はハンナさんを縛っていた手拭いで同じように両手を拘束された。居間に続く扉の前で、纐纈先生は抜け殻のように丸く縮こまってしまった。威厳のある教師の風格はどこにもない。
居間に繋がる扉は閉じられている。その奥に誰かがいたのなら、きっと顔を覗かせただろう。不安になってどうかしたのかと尋ねただろう。身体が動かなければ声を出したに違いない。しかし、居間やその奥にある部屋から反応はなかった。
パトカーから出てきた二人の刑事は、到着早々の急展開に目を丸くしていた。誘拐の現行犯の逮捕に焼死体の事件が加わった上、僕たちが矢継ぎ早に喋るので混乱もひとしおだったろう。とりあえず追加の応援が来るまで絶対にここを動かないでくれと厳命されてしまい、僕たちはパトカーを待つことになった。面倒ではあるが事情聴取が待っている。
ハンナさんは何度も何度も僕たちに頭を下げた。一番怖かったのは彼女だろうに。兎にも角にも無事で良かった。今日の出来事を日記に纏めるなら、その一言に尽きる。
応援は中々やってこなかった。過程が激しすぎて、ひと段落ついた後は時間の流れがスローだった。外に出ると風が全身を撫でつけていった。妙に冷たく感じられて、知らないうちに冷や汗をかいていたのに気付いた。
駐車されたパトカーのパトランプが眩しくて目を逸らすと、近所の住人たちが顔を出してこちらを見ていた。けれど、何があったのかと近付いて訊いてくる者はいない。纐纈ハイツの住人ですら、しばらくすると自室へ戻ってしまった。
疎遠な誰かの家で、何かがあったらしい。それだけの記憶を留まるのだろう。夕飯の話題にのぼって、後日新聞で詳細を知って、そこからは続かない。そのうち忘れてしまう。きっと僕も。今まざまざと身に宿したこの感情の群体は、大人になるにつれて風化する。
きっと、それが正しい。忘却できないと、いつか思い出に圧し潰されて、動けなくなってしまうから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます