△7二 位置
何故ハンナさんは警察にかけなかったのか。
有無を言わさず110番ではなく、友人の黒木さんを選んだ理由は何か。
「今の僕たちのように、警察に通報する確証がない状態だったとしたら、それも考えられます。何かが変だけど、明確な犯罪が発生していないなら外見上はドライブですから。通報を躊躇したのかも」
「それでも私にコールしてきたってことは、私も知っている人?」
「アプリのリストから黒木さんを選んでいるから、その可能性が高いと思う。彼女と何回かメッセージのやりとりをした?」
「ええ、土曜も日曜も。だから咄嗟にアプリを開いたとしたら私の名前は上の方に出たと思うけど」
黒木さんは両手を組み、床をじっと見つめた。彼女の頭の中で、共通の知り合いを洗い出しているのだろう。だが、あまりにも手掛かりが少ない。僕にも心当たりは全く浮かばなかった。
現段階での特定は不可能だ。僕は頭を切り替えて、別の疑問点へ思考を集中させる。解けないクロスワードの問題を諦めて、別の個所を埋めるように。
「ハンナさんが沈黙していた理由を考えましょう。例えば、猿轡をさせられているとか」
「どうだろ。大声を出せば漏れ聞こえそうじゃない? それに、矢吹君の推理通りならハンナちゃんは助手席に座っているわけでしょ。雨とはいえ助手席に座った女子高生に猿轡をした状態で車を運転するなんて、外から見られたらアウトだよ」
言われてみればその通りだ。宝さんの反論に、僕は頷かざるをえなかった。他に喋れない可能性があるとしたら気絶か。いや駄目だ、ハンナさんが自分の意思で運転手に隠れてコールをしたなら、直前まで彼女には自由意志が存在している。舌打ちの瞬間まで、運転手は気付いていなかったのだ。気絶させるなら遅い。
「あ、脅されていたんじゃないかな」
「右手でハンドルを握って、左手でナイフを向けられても効果が薄いのでは。それに、悲鳴や抵抗の衣擦れの音もありませんでした」
宝さんの発言を今度は黒木さんが否定する。宝さんもそれ以上思いつかなかったらしく、あっさりアイデアを取り下げた。
何故、ハンナさんは黙っていたのか。抵抗の声さえなかったのか。
状況を理解するには、ハンナさんの立場になって考える必要がある。
委員会が予定より早く終わった。
黒木さんが今日高槻さんに挑むことは、彼女には知らせていない。
彼女からすれば将棋部に寄る動機付けは薄かったはずだ。
今日は行けないと連絡してしまったし、もう帰ることにしよう。
下校途中、顔見知りと出会う。
何か理由があって助手席に乗せてもらう。
しばらくして、運転手が妙だと気付く。
これは何かがおかしい。
けれど、車は走行中で逃げられない。
危険かもしれない。
でも、警察に通報するような確証はない。
それでも誰かに何かを伝えたい。
自分の状況や相手の存在を。
そうだ、この時点でハンナさんと運転手は、まだ表面上の関係が悪化していなかったはずだ。まだハンナさんは身体的な拘束を受けていない。スマホを取り上げられてもいない。明確な身の危険を示す兆候は、言葉のやりとりや気配だけだ。
「やあ、お待たせ」
扉が開いてバルトシュさんが入ってきた。急いだらしく、息が上がっている。制服を脱いで椅子にかけ、カッターシャツ姿になったバルトシュさんが僕の前に立った。
「とりあえず、私にできることは?」
「あの、一年の黒木です。ハンナちゃんのスマホの位置情報を調べられますか?」
「位置情報? ああ、家族のスマホの場所を探すやつだね。できるよ、あいつが夜遅くまで遊び歩いて、こっぴどく怒られてから父が付けたんだ。ただ私は使ったことがないな、やり方は分かる?」
「あ、はい。多分ですけど」
「では君にお願いしよう」
そう言ってバルトシュさんは自分のスマホを黒木さんに手渡した。ロックもかけていないようだ。黒木さんは貴族から宝物を授かる魔女のように、恭しく両手でそれを受け取った。
「それで、状況を教えてもらえないか。ハンナが誘拐されたと言っていたけど」
「あ、はい。えっと」
「ストップ。ちょっと待って」
説明しようとした僕を宝さんが制止した。
「他にも連絡してあるから、もうすぐ来るはず」
宝さんが扉を見た。すると、ノブが回りゆっくりと扉が開く。男子生徒の制服が姿を見せ、それが熊田さんだと分かった。奥にもう一人いる。高槻さんだ。渋々といった様子で部室に入り、明らかにバルトシュさんを無視して隅の椅子に座った。
「誘拐ってのはマジな話か?」
熊田さんが訊いた。連絡を受けて、高槻さんを引っ張ってきたのだろう。
「はいはい、私がまとめて説明するから。矢吹君は考えてなさい」
宝さんが男子の先輩たちを奥に押しやり、身振り手振りで状況を説明しはじめる。途中参加なのに物凄い臨場感溢れる演技だった。
「あのさ、ハンナさんは眠らされたんじゃないかな。眠りに入る直前に、危険を確信して咄嗟にコールしたんだ」
僕は言いつけ通り、ハンナさんが無言だった理由を考えていた。これなら状況は説明できる。ハンナさんは自由にスマホに触れられる状態で、強制的な眠りに抵抗する形で発信を行った。眠ってしまった後で通話しているスマホを回収されたのだ。だから彼女は喋れなかった。
「ほら、あるだろう、クロロフォルムみたいなの」
「矢吹君はドラマの見過ぎ。クロロフォルムにそんな効果はないの。気を失うぐらい嗅がせたら間違いなく即死。それに車内は密室よ、そんな都合のいい強力な薬品が気化したら、運転手まで危ないでしょう」
黒木さんは目線を上げないまま僕の説を無碍に跳ねのけた。バルトシュさんのスマホを操作しながら、彼女も不慣れな作業に苦しんでいるようだ。
「だったら睡眠薬は? 出来る限り速効性のやつ」
「確か、早くて20分から30分ぐらい。不眠症の人が使うようなの」
「それだ。睡眠薬を飲まされて、車内で効果が出たんじゃないかな」
「どうやって飲ませるのよ、そんなもの」
「お菓子とか、飲み物に混ぜるんだよ。彼女はほら、何ていうか、平均より食に対して積極的な面があるから」
食い意地が張っているから、とはバルトシュさんが近くにいる手前言えなかった。しかし事前に睡眠薬を飲ませるとしたら、方法はそれしかない。ハンバーガーでもどら焼きでも、とにかく混ぜて胃に入れれば良い。こう考えると、先程推理した流れは一部修正される。
ハンナさんは何者かに出会い、飲食を供与された後で車に乗った。あるいは車に乗った直後に何かを飲み食いした。飲食の中には比較的速効性の睡眠薬が含まれており、彼女は急激な眠気に襲われて薄れゆく意識の中で黒木さんにコールした。そうだ、不自然な眠気だったからこそ、自分の身に危機が迫っていると確信が持てたのかもしれない。
「出た、スマホの場所」
黒木さんが言った。その声に、宝さんたちも一斉にこちらを向く。
「どこにあるの?」
僕の問いに黒木さんは反応せず、スマホを食い入るように見つめている。顔が蒼白になり、恐ろしいものから目が離せない様子だった。
「黒木さん、ハンナさんのスマホはどこ?」
「これ……今ある場所が表示されるの。誤差は小さいはず」
黒木さんが震える手で僕にスマホを向けた。蛍光灯を反射し、一瞬白光りしたスマホと真っすぐに対面した。表示された地図が見える。矢印が幅の広い道路に沿って点滅しながら動いていた。進行方向の1キロほど先に大きな敷地がある。表示名には見覚えがあった。先週、僕たちが訪れた場所。そして、焼死体が発見された場所。
今、二条ハンナのスマホは、道徳公園に向かっている。
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