△1四 常識
常識とは十代の内に身に着けた偏見のコレクションだとアインシュタインが言っていた。本当に言っていたかどうかは知らない。
彼は偉大な物理学者であって僕の親戚のおじさんではないのだ。従って正確な表現は、言ったらしいよと知らない誰かが書いていたのを翻訳されたことを知った人が紹介したメディアを僕が読んだか聞いたかして今それを思い出した、である。伝言ゲームの信憑性は定かではないが、今日僕はその言葉の意味をあらためて考えさせられた。
僕にとっての常識は、クラスメイトにとっても常識だろう。
僕が知らない人間は、クラスメイトも知らないだろう。
入学からたった一カ月で他のクラスの同級生の顔と名前が一致するわけがない。
そうに違いない。根拠もなく思い込んでいたそれは、偏った期待でしかなかった。
「え、二条さん? そりゃ知ってるよ、ポーランド出身なんだろ?」
「ブロンド良いよねー、羨ましい! スタイルも全然違うの、ああ……」
「女子卓球部期待の新星かと思ったけど流れ星だった。惜しいなぁ」
「なになに矢吹、告白すんの!? サッカー部の奴が先週フラれたらしいぞ! まぁ気にせず頑張れ! あ、明日どういう感じでフラれたかだけ教えて!」
以上が二条ハンナを知っているかと尋ねた僕のクラスメイトたちによる大まかな反応である。納得いかない誤解も垣間見られたが、グループ・性別・学力の傾向を問わず聞いた相手は全員が二条ハンナを知っていた。
そんなにも目立つのだろうか。まぁ髪の色も容姿も違うのだから、その他大勢の生徒より判別が容易なのは認めるにしても僕はショックだった。黒木さんに言われた通り、もう少し周囲の人間関係に気を払った方がいいのかもしれない。
「矢吹が将棋以外に興味を持つなんて驚いたよ」
右の席に座る柏木が言った。制服の上のボタンを開け、ワックスで無造作ヘアを演出するこの軽薄な男は、一通りのクラス内調査を終えてショックを受けている僕を見ながら笑いを堪えきれない様子だった。
「そういうんじゃない。将棋部への勧誘だよ」
「なんだ。じゃあ昼休みに姿を消したのは?」
「黒木さんと一緒に二条さんを誘う打ち合わせをしてきた。授業後に行くつもり」
僕は簡潔に答えた。
「黒木嬢か。失礼ながら、二人とも明るく楽しい勧誘には向いてなさそうだな」
「明るく楽しい必要があるかな?」
「陰湿で苦痛を伴う勧誘は脅迫と呼ぶんだ。十分条件ってとこかな」
柏木は人差し指と中指を動かし、駒を指すジェスチャをする。柏木は駒の動かし方も怪しいのでどことなくぎこちない。
「正しい勧誘なんて、あるのかな」
僕は肘をつき、両の掌で自分の顔を支えた。
そもそもの話、僕は将棋を勧誘する根本的な必要性が理解できない。僕にとって将棋は地上最高に面白いゲームであり、僕の人生において将棋以上に心を奪われた遊びは今のところ存在しない。どうして将棋がオリンピックの正式種目でないのか不思議に思っているぐらいだ。アメリカの大統領選も竜王戦のように各州トーナメント方式から党の代表者同士で七番勝負によって決めれば良いのでは、と思っている。僕にとって将棋の価値は自明で、証明する必要がない。
しかし、そうでない人が存在することも僕は知っている。つまり、将棋なんてものは古臭くしかめっ面をして呻っているだけの地味なボードゲームとみなしている人が世の中の大半である事実を、僕は現実として受け入れている。僕にとって自明の価値観を、自明でない価値観を持つ相手にどう伝えればよいのか。それは、言われるがまま地動説を利用する者たちに、聖なる天動説を信じさせるぐらい途方もない徒労に思えてならない。
「誘っただけで将棋部に入るような人は、誘わなくても入ると思うんだよ」
僕は前者だった。将棋への興味は最初からあって、強引なやり方だったとはいえ部に入ったのは自然な成り行きだったと思っている。しかし、二条ハンナの場合は少し複雑だ。最初は入ると言って、翌週には入らないと伝えてきたのだから。その辺りの事情を訊かない限り解決は遠い。
「まぁ、そりゃそうだが。部活なんて好きで入るだけじゃないだろ」
「どういうこと?」
「例えば、俺は高校に入るまでハンドボールのルールさえ知らなかった。でも入った。どうしてか分かるか?」
「……ポスターを見ていたら後ろからハンドボール部の部長が演説を始めて、逃げようとしたら他の部員に羽交い絞めにされた、とか」
「そんなわけないだろ。どんな部活だよ」
将棋部はそうだったけど。
「今だから言うがな、女子ハンドの先輩が可愛かったんだよ。それだけだ。でもまぁ、練習してるうちに面白くなってきたからハンドボールも好きになったぜ。入る理由なんてそんなもんさ」
「そういうものかな」
確かに将棋が好きでなくとも、まだルールさえ知らなくとも、将棋部に入ることは可能だ。言われてみれば、兄がいる将棋部に入りたい、という二条ハンナの言葉は将棋よりも兄の存在に重心が置かれているように思える。仲の良い兄妹であることは間違いなさそうだ。
「つまり、矢吹の魅力で二条ハンナをメロメロにしちまえばいい」
「できないの分かってて言ってるだろ」
僕の溜め息と同時に、6限の開始を告げるチャイムが鳴った。
6時限目は数学だ。教科書をめくり、漸化式の頁を開く。いまいち僕は、この漸化式ちゃんと仲良くなれそうにないと予感しながら起立の号令を待った。
しかし、教室はざわついたままだった。
いつもなら、チャイムと同時に扉が開く。痩躯の老教師がカツカツと教卓まで歩を進めることで授業の空気が波のように伝播してクラスを覆うはずだ。
数学の千堂先生は時間に厳格で、初めての授業ではチャイム終了時点で席についていなかった者に対して、授業料を支払っている両親および教えを乞う立場であるにも拘らず教師に対して無礼であると叱責した。二回目の授業以降は態度を軟化させたので、イメージ戦略だったのだろう。初回のイメージがこびりついている僕たちは数学の授業前だけは慎重を期して自分の座席で休み時間を過ごすことが多い。
「千堂が遅れるなんて珍しいな」
隣で僕と同じように拍子抜けしていたらしい柏木が言った。他のクラスメイトたちも訝し気にしている。
「なんか警察が来たらしいよ」「警察?」「パトカーが裏門に停まってた」「千堂が呼ばれたってこと?」「分からないけど、ほら千堂先生は学年主任だし」「なんかあったのかな」「誰か捕まったとか」
クラスメイト達が小声で囁き合う。警察か。そういえば、科学部でも警察から電話があったという噂を聞いた。
「大変申し訳ない、一分二十五秒も遅れた」
半開きだった扉を素早く開けて、千堂先生が早足で入ってきた。即座に日直が起立の号令をかけ、全員が立ち上がる。
揶揄したり遅刻ですよと嗤ったりするお調子者はいない。この程度の遅れは他の教師ならままある。授業はそのまま進行した。序盤、出席番号によって当てる練習問題を一つ飛ばしたので、そこで一分二十五秒が調整されたと思われる。やはり、どうも漸化式ちゃんとは気が合いそうにないことを確認してから、僕は授業後の勧誘について思いを巡らせた。
6限終了を告げるチャイムが鳴る。思い思いに席を立つクラスメイトたちを横目に、7時限目は世界史なので資料集でポーランドの位置を確認しておこうと机の中をまさぐっていると「矢吹」と僕の名を呼ぶ声がした。顔を上げてみると、千堂先生が僕の前に立っていた。
僕の席は前方三列目の窓際である。教卓から声を掛ければ届く距離だ。にも拘らず、千堂先生がわざわざ近付いてきた理由が分からず、思わず背筋を伸ばす。
「もう噂になっているようだし、事件の方は夕方のニュースでもやるだろうから話してしまうが、今日うちに警察が事情聴取に来たのを知っているか」
千堂先生が言った。淡々としているのに詰問されているような気になる。
「警察が来たのは噂で知っていますが、事件というのは知りません」
僕は正直に答えた。質問を追加するなら、なぜそんなことを僕に尋ねるのかという一点が最大の疑問ではあるが、そこは説明がもらえるだろう。
「そうか。実はな、道徳公園で焼死体が発見されたんだ」
ショウシタイの音を漢字に変換するまでに、少し時間がかかった。返す言葉が見つからない僕に、千堂先生は続ける。
「それで、どうやらその亡くなられた方は、日曜日に道徳公園で将棋を指す習慣のあった人らしい。私も、あれは囲碁だったが、そういう集まりを他の公園で見たことがある」
「日曜日に公園で将棋ですか。えっと、部活ではそういう野外試合みたいなことはしません」
その種の地域的な交流が、昔はもっと盛んだったのは知っている。天童市や大阪の一部は有名だ。しかし、僕の住む街は将棋を奨励していない。サークル的な集まりだろう、と推測した。
「ああ、部活として参加していないのは部長の高槻から聞いている。個人的に参加した事もないか?」
「はい、ありません」
「うん。そうか、それならいいんだ」
「高槻部長に、警察がそんな事を訊きにやって来たんですか」
それぐらい電話で済む話だ。もっと具体的な根拠があって動いているはず。僕の視線を受け、千堂先生は数秒逡巡したが、やがて理由を教えてくれた。
「どうやらあいつは、日曜日にその将棋の集まりに参加していたらしくてな。警察が聞き込みをしたら、うちの制服を着た生徒の目撃証言があって、それでまぁ、その生徒に亡くなられた方の、人となりやらトラブルがなかったかを訊きに来られたんだ」
そんなことをするのは、まずあいつだろうから特定は容易だった。そう言って、千堂先生が溜め息をついた。この言われ方からして、僕が入学する以前にも色々とやらかしているらしい。
「高槻部長が何かしたってわけじゃないんですね」
「ああ、15分ぐらいで終わった。鬼頭先生と
千堂先生が窓の景色を見ながら言った。ちなみにゴールデンウィーク中の妙な落書きというのは、校庭に野球部の白線引きで大きくZと描いた事件を指す。本人は三年生になったから受験祈願だと主張している。王将が絶対に詰まない状態を意味するZがグラウンドに描かれたところで、どの神様がその祈りを担当するのかは不明だ。
「矢吹がどうこういう話ではないし、日曜日に公園で将棋を指すことが危険というわけでもないのだが、事件があったわけだから一応忠告しておこうと思ったわけだ」
「あ、はい分かりました。わざわざありがとうございます」
「まぁ、色々と気を付けるように」
そう言い残して千堂先生は去っていった。数学教師にしては何とも抽象的な忠告だ。それとも、数学とは抽象的なものだから、これが本来の姿なのか。学年主任として生徒の指導にあたる老教師は、教壇に立っている時よりも人間味が増して見える。
それにしても、と僕は思った。
僕が将棋部員獲得のために奮闘しようという時に、我らが部長はなにをしているのか。時計を見ると、勧誘まで残り1時間を切っている。7時限目が終わると同時に、教室を飛び出して黒木さんと共にI組に突入する予定だ。
ああ、そうだ、ポーランドの位置を確認しておかなくては。
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