第8話 「文化防衛論」(三島由紀夫)

大学生の時は賄いなしの学生下宿でしたが、自炊は殆どしたことがありません。よってカレーの様に「~の素」があるものは作れても、自分で味付けすることができませんので、今も本当の意味の「料理」というものが作れません。たまに自宅で自分の為だけに「キムチ鍋」を作るのですが、あのレトルトパックの様な大きな袋に入った「キムチ鍋の素」を土鍋に入れて、切った具材を投入して煮込んだら終わりです。それで十分美味しいのです。


なので、究極のところ自分ができる「料理」というものの分野は単に「切る」ことだけになりますが、それもリズミカルとか綺麗にとか早く(速く)とかいったレベルではなく、いつまで経っても初心者運転レベルです。いつ指を切ってもおかしくない状態で、たまに爪を削いでしまったりします。その時は削ぎ落ちた爪が料理に入らない様に真剣に探します。「洗車」に例えれば、手洗い洗車では勿論無く、機械洗車の機械のところまで車を持って行くだけのレベルです。それも洗車機のレーンに真っ直ぐ沿ってではなく結構車体が曲がったりはみだしかけたりしている状態です。


自宅の台所の流しの下の扉に全く同じ包丁(愚妻によるとそれなりの値段するそうです)が2本差してあります。以前どこかの番組でそこには包丁を置かない方がいい様なことをやっていましたが、我が家は学ぶということができない家庭です。愚妻が1本目の包丁を買って暫く使った後に、私が何かの皮を剥いたのですが、使用後に洗って十分水を拭き取らなかったらしく「切れ味が落ちた」と叱られました。そうしたらその少し後に愚妻が「自分専用」として同じ包丁を買い、前のは「あんたの」と決められました。以後はりんごの皮を剥いて自分で食べるのも、キムチ鍋の野菜や豆腐や豚バラ肉を切るのも「あんたの」包丁を使っています。


不器用に切っていると、たまに、「それ、私のじゃないでしょうねぇ」と抜き打ちの確認があります。


昔は自分の実家に「菜切包丁」といった先端が尖ってない包丁がありましたが、もう何年も「菜切包丁」は見たことがありません。自宅では魚を調理しないので「出刃包丁」もありませんし、「牛刀」の様に長い包丁もありません。りんごを剥くのにも「果物ナイフ・ペティナイフ」をわざわざ揃えませんが、恐らくどこの家庭でも我が家と同様に殆ど包丁に拘ったりしていないのではないかと思います。


昔は「男子厨房に入るべからず」と言われましたが、現代はどうでしょうか。料理が好きな男子が結構いますし、有名シェフには男性も勿論居ます。ただ、今や「コンビニ」の存在が当たり前となっていますからコンビニ弁当やインスタントで食事を済ます方が案外多いのかもしれません。それでも、どの単身の方でも一応包丁とまな板くらいは揃えているのだと思われます。コンビニと並んで当たり前の存在となっている「百均」にもそれらは売られているのですが、揃えるとしたら「百均」程度のものでいいのか、それともある程度の包丁を揃えた方がいいのか、専門家に伺ってみました。


「文化包丁論」


良い包丁悪い包丁から、良いまな板悪いまな板まで、選択の仕方もレクチャーしてあります。

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