3-13

 注文の品が来るまで手持ち無沙汰に読書中の男に視線を注いだ。相席であっても話したくなければ無理して初対面の相手と会話をする必要はない。

ひとり者同士、黙って同じ席に着いて黙って食事をすればいい。


けれど無口に本の世界に引きこもる男は美夜のバディとは真逆に思えた。

九条はこちらが黙っていても勝手に話を進めてくれる。それが鬱陶しくもあるが気が楽だ。


 常にお喋りな男が隣にいる日常に慣れてくると、無口な男が一層物珍しい。気まずさに堪えかねて話かけようかと思っても元来の無口な性格が邪魔をする。


『……相席の縁で何か話したいならそっちから話題振ってくれないか? そうやってじっと見られているだけが一番困る』


視線に気付いた男が美夜を見据えた。抑揚のない単調な声色や冷たい瞳には怒りの感情を感じない。


「ごめんなさい。……その本」

『知ってる?』

「檸檬を爆弾に見立てた話ですよね。高校の頃に読みました」


 男の手にある文庫本は梶井基次郎の[檸檬れもん]だった。

鮮やかな黄色い表紙は陣内の自宅で見かけた檸檬の文庫とは装丁が異なる。別の出版社か、それとも出版された時期が違うのだろうか。


 ウェイターが美夜達の席に料理を運ぶ。夕食の準備が整い始めたテーブルの隅に世界を閉じたレモンイエローの文庫本が添えられた。


男もクラムチャウダーを頼んでいた。美夜が選んだ前菜のポテトフリットと二つのクラムチャウダーがテーブルに並ぶ。

フリットを勧めると彼は遠慮なく彼女の皿に手を伸ばした。


『檸檬と桜どっちが好き?』


唐突に尋ねられた男の問いに、美夜は即座に返答する。


「梶井の小説の話ですか?」

『小説じゃなくてもいいけど』

「果物のレモンは好きでも嫌いでもありません。桜の花は苦手です」

『桜が苦手な人間もいるんだな』

「春が嫌いなだけです。桜は春の象徴のようなものですよね。でも梶井の桜は好きですよ」


 大昔の人間は春には桜ではなく梅や桃を愛でたと聞く。墓地に咲く桜を昔の人は忌み嫌っていた。

いつの間にか、春の主役は桜となった。梅や桃の開花情報は聞かなくとも、全国の桜の開花情報は弥生やよいの時期に天気予報をつければ毎日流れてくる。


『なんで梶井の桜は好きなんだ?』

「桜の木の下に死体が埋まっていると思うから……ですね。食事の場ですみません」


 美夜が失言だと謝った発言を男はたいして気にしていない様子だった。

その後も運ばれてきたパスタを食しつつ、たまに男と会話を交わす。会話のほとんどが[檸檬]に収録された物語の話だった。


同じ日に同じ小説の話を別々の人間と語り合う。どちらも友達でも知人でもない。

一方は殺人事件の被害者家族、一方はたまたま相席になった名も知らぬ男。


 発展も白熱もしない平坦な会話を細細ほそぼそと交えて食事は終わった。

トマトのパスタは美夜の好みに合っていた。当たり前にコンビニのパスタより美味しい。

食後のコーヒーは、ほっと落ち着くぬくもりに溢れていた。


 居心地の良い地下に手を振って現実が待つ地上に上がる。必然的に同じ時間に退店した二人は視線だけで別れを告げた。


 離ればなれになる赤い傘と黒い傘。

あの日と同じ春の雨。あの日と同じ、赤と黒。

彼女と彼はどこまで気付いている?


 一夜の相席を交えた女と別れた木崎愁は赤坂六丁目方向に足を向けた。

遠くに稲妻の気配はあるが、雨はひとまず小康しょうこう状態。傘に当たる雨音も控えめだった。


 赤坂六丁目に建つ近代的なコンクリートマンションが闇に白く浮かび上がっている。若葉に変化した桜の木が植わるアプローチを抜けてひとつめのオートロックを通過し、さらに二つ目のオートロックを通って共有ラウンジへ。


偶数階用のエレベーターで最上階に上がった。部屋数も限られた最上階で最も広い六○一号室の鍵をカードキーで解錠する。


 用済みとなった黒い傘を傘立てに放り込んだ矢先、彼の帰りを待ちわびていた舞が玄関に飛び込んで来た。


「愁さぁんっ! おかえりなさぁい」

『はいはい、ただいま。服濡れてるから抱き着くなよ。……伶、これクリーニング出しておいて』


抱き着こうとする舞を制し、一緒に出迎えに出た伶に雨に濡れたジャケットを渡す。伶はそこから薫る匂いに鼻を動かした。


『夕飯いらないと言っていたので、てっきり接待かと思っていたんですが……ムゲットに行きましたね?』

『なんでわかるんだよ』

『服から雨の匂いとイタリアンの匂いがします』

『伶くんは鼻が効くねぇ』


 愁が纏う匂いが無論それだけではないと伶は知っている。愁に染み付いた殺戮の臭いは初めて殺人を犯したあの日から永遠に消えない。


『風呂沸いてますよ』

『ああ、すぐ入る』


 一旦自室に戻った愁は雨の匂いが染みたネクタイとワイシャツを脱ぎ捨てて半裸になった。部屋の電気もつけずにベッドに寝そべり、先刻の女との会話を反芻はんすうする。

桜の木の下には死体が埋まっていると真顔で語る女に初めて会った。桜の下に死体を埋めた経験でもあるような口振りには、不思議なデジャヴがある。


 黒闇こくあんの街にまた雷が轟いている。銃声に似せたあの音は獣の眠りを呼び覚ます春雷。


 そうきっとこの出会いはボタンの掛け違い。

偶然の相席も、トマトのパスタもレモンイエローの文庫本も、少しでもタイミングがずれていれば彼女と彼は出会わなかった。


いつか二人は悟る。

出会ってはいけなかった、と。

いつか二人は悔やむ。

出会わなければよかった、と。



Act3.END

→エピローグ に続く

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