エピローグ
エピローグ
昔、ある犯罪組織の帝王は自身の犯罪哲学を部下に
この世には三種類の人間がいる。
人を殺せる人間、殺される人間、殺さない人間の三種類だ。
名をキングと呼ばれ崇められていた彼の哲学を犯罪組織の者達は信じて疑わなかった。
しかしこの世には第四の人間が存在することを
それが相手を殺したくても殺せなかった人間だ。その存在を
本当はこの手で殺したかった。だけど殺せなかった。だから……。
代わりに殺してくれて、ありがとう──。
*
井川楓は線香の匂いが嫌いな女だった。
彼女が小学生の頃に大嫌いな祖母が逝去。祖父は毎朝毎晩、祖母の仏壇に線香を焚いていたと言う。
そのせいで楓は寺や法事で焚かれる線香の匂いを嗅ぐと
結婚前に彼女が冗談半分に言っていたことがある。
――“私の仏壇にはお線香じゃなくてアロマキャンドルを焚いて欲しいな。子どもが生まれたらちゃんと教えておかなくちゃね。お母さんの供養にお線香は使わないでね、って”――
マッチが擦れた音の後に赤い炎がゆらゆらと揺らめく。火を灯された線香から煙が昇り、独特の香りを排出し始めた。
『お前の嫌いな匂いだよ。……大嫌いなお祖母さんを思い出すかい?』
遺影に選んだ写真は新婚旅行でカナダに行った時のもの。遺影の中の楓はとても綺麗だった
『お前は大人しく俺の飯を作っていればそれでよかったんだ』
女は結婚したら家庭に入って夫を支える。
夫の食事を作り、夫の服を洗濯し、夫のために風呂を沸かして帰りを待っている。そこに“女”の要素は必要ない。
若さも綺麗でいる必要もない。この期に及んで、他の男の目を気にするなど婚姻の契約を結んだ夫への裏切りだ。
井川憲市の基準はいつでも自分の母親だった。母親が出来たことは妻にも出来ると彼は思い込んでいる。
料理も裁縫も得意な楓は理想の“嫁”になってくれると期待していた。それが理想の母親像と混同していると憲市は気が付かない。
『俺を裏切る人間はいらないんだよ』
昨年の秋頃から楓がやけに色気付き始めた。楓に女を求めなくなっても本能的にわかる
雌が盛る時は必ず側に雄がいる。
興信所に依頼した楓の浮気調査の結果を聞いた瞬間に蒔かれた殺意の種は、楓を抱くたびに育っていった。
この肌を他の男に触らせて、ここに他の男の性器を挿入して気持ち良く喘ぐ楓を想像すると、億劫な性行為がさらに億劫になった。
他の男が触れた肌は汚い。神聖な妻だった楓は汚い女に堕ちてしまった。
妻という存在は常に良妻賢母でいなくてはならない。憲市の母親のように。
楓はもういらない。また、“母親になってくれる女”を見つければいい。
憲市のスマートフォンには様々なアプリのアイコンが並んでいる。黒色の四角いアイコンの右上に一件の通知マークがついていた。
アイコンをタップして現れた画面はエイジェントのメッセージボード。
──【あなたの復讐は完遂されました。アプリを脱会してアンインストールしてください。】──
メッセージに従って【エイジェント】の脱会手続きを完了した彼の口元が斜めに歪む。真っ暗なスリープ画面には、笑い狂う憲市の醜い顔が映り込んでいた。
episode1.【春雷】 ーENDー
→あとがきに続く
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