3-12

 春の雨は飽きずに闇夜を濡らす。20時の赤坂駅前は人や車の姿もまばらだった。

道路を跳ねる雨音を背にして神田美夜は赤坂の道を進んだ。途中で二人組の外国人男性に片言の日本語で飲みに誘われたが、彼らの顔も見ずに流暢な発音の英語で断りの言葉を返した。


 頭と身体が重いのは低気圧の影響か。きっとそれだけではない。

ホテルで囁かれた陣内の言葉がずっと心の回廊を独り歩きしている。


 ──“あなたは刑事らしくない。どうしてそちら側にいるんですか?”──


 鈍重な動きで彼女は赤坂二丁目と六丁目の狭間に入り込んだ。パンプスに跳ねた雨水がストッキングに染み込んで気持ちが悪い。


 東京は昼と夜で世界が変わる街だ。太陽の下では見えなかった世界が闇の下には現れる。

洒落た街の印象が強い赤坂も夜は飲み屋街に変わる。

見慣れてきたはずのいつもの坂道で初めて目に留まったその店も、今日が雨でなければ見落としていたかもしれない。


赤坂六丁目側のビルの軒下で雨宿りをしていたカップルがひとつの傘に身を寄せ合って雨に挑んでいく。わざわざひとつの傘でどしゃ降りの道を歩くカップルに効率が悪いと呆れつつ、彼女は先ほどカップルが雨宿りしていたビルに視線を移した。


 商業ビルの一階部分の壁面がクリーム色に塗られている。

壁に固定されたプレート文字は黒色のアルファベットでTrattoria mughettoムゲットとある。Trattoriaトラットリアは確かイタリアの大衆食堂を指す言葉。


イタリア語にそこまで明るくない美夜はムゲットの意味がすぐには思い浮かばない。

似たつづりには鈴蘭すずらんを表すフランス語のミュゲがある。おそらくミュゲのイタリア発音だ。


(イタリアンか……)


 あと少しで家に着くのに、家の手前で雨宿りがしたくなったのは冷たい雨に打たれた肌をぬくもりが求めているから?

どうせ家に帰っても誰もいない。ちょっとくらい帰りが遅くなっても小言を言ってくれる家族もいない。

孤独な大人は時々、予定外の寄り道をしたがる。


 トラットリアは地下にあるらしい。雨に濡れないように軒下に寄せられたブラックボードには本日のおすすめパスタやディナーメニューが洒落た横文字で書かれていた。

港区のイタリアンにしては値段も良心的だ。


閉じた赤い傘の水気を切ってから彼女はガラス扉を押し開けた。地下に繋がる石貼りの螺旋階段にはこれまでにここを降りた者達の濡れた足跡が残っている。


 パンプスの音を鳴らして一段ずつ下に向かう。誘われた地下の空間は外の喧騒を忘れさせてくれる別世界。

木の扉の先に待っていた世界はぬくもりのあるオレンジ色だ。飴色のテーブルを囲んで多くの老若男女がお喋りと食事に興じている。


レジ横の一角にはハンドメイドと思われる鈴蘭をモチーフにしたピアスやイヤリング、ネックレスが雑貨屋のアクセサリーコーナーのごとく陳列されていた。やはり店名のmughettoは鈴蘭を意味しているようだ。


 席は満席に近い。予約もしていない人間がのこのこと入ってもいいのか、躊躇して引き返しかけた美夜の背中を店員が呼び止めた。


「おひとりですか?」

「はい。予約をしてないんですけど……空いている席はありますか?」


見たところ、どこの席も二人連れや三人以上でテーブルを囲っている。ひとりで気楽に座れるカウンター席も空席はひとつもなかった。


「今日は混んでいて相席でよろしければひとつ空いています。同じお席が男性の方となりますが……」

「私は相席で大丈夫です。その席の方に相席の確認をしていただければ」

「申し訳ありません。少々お待ち下さい」


 応対してくれた女性店員は美夜よりも幾分歳上だ。歳は三十代の半ばから後半、人当たりの良い笑顔に癒された。


 刑事をしていると相手の身なりや年齢をつい観察してしまう。通路で待つ間、料理に舌鼓したつづみを打つ家族連れをぼうっと眺めていた。

あんな風に家族でレストランに食事に出掛けた思い出はもうずっと、遠い昔。


今日はどうしてもひとりの家に居たくなかった。雨の夜のひとりきりの部屋で空腹を満たす目的だけの味気ない食事は、普段は気にもしない彼女の孤独を浮き彫りにさせる。


「お客様、お待たせいたしました。お席にご案内いたします」


 案内された席は奥まった場所に設置された二人席。相席の相手はスーツを着た同年代の男だった。


「失礼します」

『どうぞ』


 男は美夜を一瞥して、開いている文庫本に視線を落とす。男の左手に指輪はない。

独身のサラリーマンが仕事帰りにひとりで立ち寄るにしては、ラーメン屋でも居酒屋でもなくイタリアンとはずいぶん洒落ている。


テーブルには水のグラスと生ハムとチーズのサラダが並んでいた。男側に揃う品目もまだ前菜の段階だ。


 雨で身体が冷えていた。渡されたメニュー表から冷たい食べ物は除外して、彼女が選んだ料理は前菜にローズマリー風味のポテトフリットとクラムチャウダー、パスタはトマトソースで作られたポモドーロ。


以前に九条がコンビニで購入してきたトマトとチーズのパスタは、可もなく不可もないコンビニの味だ。コンビニのパスタではない、イタリアンレストランのトマトのパスタが食べたい気分だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る