3-7

 殺害現場を後にした二人は四○三号室に向かった。ピンクを基調とした四○六号室とは違い、四○三号室は紫と黒で彩られていた。


 手錠を嵌めた陣内がベッドに腰かけている。丸めた背中がゆらゆらと揺らいで彼は美夜を見据えた。


『待っていましたよ、神田美夜さん。少し遅かったですね』


口の端だけを上げて見せた陣内の薄ら笑いが美夜と九条の背筋を凍らせる。顔に残る血しぶきは返り血だろう。

殺人現場でもないのに漂う殺戮の臭気は、陣内が纏う血まみれのバスローブから発生している。


 美夜は黒革のソファーに陣内と向き合う形で腰かけた。陣内の側には九条が立っている。


「今日の殺人は何が狙いだったの?」

『おい神田。何を聞いてるんだ?』

「これまでは表面をナイフで切っただけの控えめな十字架だった。今回は返り血も気にせず大胆に深く切っている。立派な十字架ね」


質問の意図がわからない九条の戸惑いを無視して彼女は話を続ける。


「だけど私には、あなたがあの女性に殺意を向けていたとは思えない。あなたの標的は最初から前田絵茉だけだった」

『よくわかりましたね。その通りです。絵茉以外の女に俺は殺意はない』


 数十分前に女を殺したとは思えないほど陣内の態度は飄々としていた。美夜達が学校で面会した時と彼の様子は何も変わらない。


「絵茉は教え子でしょう。動機は?」

『……俺を馬鹿にしたんですよ』


飄々とした陣内の表層に微かな怒りが滲み出た。


『あれだけ化粧で顔を変えられると教え子だとしても気付かないものですよ。だけど絵茉はホテルに来てすぐに俺に気付いた。あいつ言ったんですよ。“先生みたいな冴えない男はデリヘルでも使わないと女に触れないんだね、ダッサーイ”……って』


 絵茉の客を小馬鹿にする接客態度の悪さはたびたび問題視されていた。

それだけのこと、と言ってしまえばこの世に犯罪は起きない。街で肩がぶつかっただけで暴行事件が起きたり、隣人のうるさい生活音に堪えきれなくて殺人事件に発展するケースもある。


それだけのことで人は人を憎める。

それだけのことで人は人を殺せる。


「あなたは絵茉の前にひとり殺している。それは何故? 絵茉だけを殺せばいいじゃない」

『絵茉だけでは面白みがないじゃないですか。最初の殺人が上手くいく保証はない。だから絵茉を殺す前に予行演習がしたかったんです』


 美夜は冷静さを保っているが、九条は不快感をあらわにした。九条の歪められた顔には陳内の思考が理解できないと書いてある。


「初瀬明日美さんの顧客リストにあなたの名前があった。あなたは明日美さんのお客だったのね」

『ちょうど知った顔が側を通ったから練習台はあの子にしました。絵茉と違って彼女はいい子だったので、殺すのは少し可哀想でしたね。だけどひとり殺したら愚民が勝手に俺を英雄扱いしてくれた。ネットを見ましたか? 切り裂きジャックの登場に国民は歓喜したんだ』


 初瀬明日美の事件の直後、ネットのニュースやツイッター、掲示板はラブホテル街でデリヘル嬢が殺されたセンセーショナルな事件の話題で持ちきりだった。


『絵茉の腹を切り裂いて気が晴れるかと思ったらそうでもなかったんですよ。もっと殺したくなった。殺せば殺すほど、民衆は俺を21世紀の切り裂きジャックと崇める。殺した翌日にネットの盛り上がりを見るのは愉快でした』


陳内の殺人衝動に肥料をやり、水を注ぎ、21世紀の切り裂きジャックの名を得た怪物を産み出したのは連続殺人鬼の出現を喜んだインターネットの民衆だった。


「どうして今回はわざわざ警察に見つかるようなやり方をしたの?」

『あなたがここに来るか試したんです』


 殺人鬼の瞳に宿った鋭い光が美夜の心の深層を探る。初めて動揺を見せた彼女は震える唇を動かした。


「……私をここに呼ぶために?」

『会えるならもう一度会ってみたかったんです。会って確認したかった』

「何を……?」


揺らめく影が一歩、二歩と美夜に近付く。立ち上がった陣内の腕を九条が拘束しても陣内は歩みを止めない。

彼は美夜しか見えていなかった。


『あなたは刑事らしくない。どうしてそちら側にいるんですか?』


 深淵の怪物がじっとこちらを見つめている。

そちら側はたのしいかい?

そちら側は正しいかい?

怪物の問いかけに彼女はいつも無言でやり過ごした。


答えられない美夜を置き去りにした薄ら笑いの背中が遠ざかる。


 覗かれた深淵。流れた冷や汗。

心の音がやけに大きく聴こえたのは、たぶん気のせい。

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