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4月23日(Mon)


 潔癖な出で立ちの一戸建てやマンションが背筋を伸ばして整列している。遠くない距離には昔懐かしい情緒を残した巣鴨地蔵すがもじぞう通り商店街があるが、完璧に整理整頓されたこの町は雑然とは無縁の世界。


その家は豊島区北大塚一丁目の細道に行儀よく立っていた。豪邸でもなければ質素でもない、特別珍しくもない建て売り住宅の表札は紺野。


 紺野邸を訪問した神田美夜と九条大河を迎えたのは息子の紺野涼太だった。


『すみません。父に声をかけたんですが、塞ぎ込んでいて……』


美夜と九条のコーヒーを準備する涼太はスエット姿で寝癖が目立ち、髭も伸びている。目の下にはクマを作った彼は実年齢よりも老けて見えた。


「妹さんにお話を伺いたいのですが……。今日は学校も休校ですよね」


 世間を騒がせた21世紀の切り裂きジャックの正体は高校教師だった。切り裂きジャック逮捕の報道は一夜にして日本全国を駆け巡り、陣内の勤め先の荒川第一高校も今日は授業どころではない。


『妹も何か様子がおかしいんですよ。食事も取らず、部屋から一歩も出てこないんです』

『こちらに呼んでいただければ結構です。可能でしたら保護者であるお父様とお兄様も同席願えますか?』


九条の人当たりの良さは相手の心をほぐす作用がある。警察に警戒心を抱く涼太も九条には警戒の牙を向けていない。


『わかりました。しばらく待っていてください。コーヒー冷めないうちにどうぞ』


 一家の大黒柱の父親が気落ちしているためだろう、身なりは怠惰でも涼太にはまだ来客をもてなすだけの覇気があった。自分がしっかりしなければと必死で己を奮い立たせている顔つきだ。


『あの息子もマッチングで人妻と遊んでいたようには見えねぇな』

「彼も先週は上中里の事件の関係で大変だったみたいね」

『兄と父親の相手は任せろ。妹の聴取はお前が上手くやれよ』

「なんで私なのよ。いつもみたいに九条くんが率先してやればいいじゃない」

『女は女同士がいいに決まってる。高校生の女の子ってどう接していいかわからなくて苦手なんだよ』


 外は霧のような雨が降っている。夜にかけて雷雨になるとの予報だった。

この家が妙に寒々しく感じるのは春の雨のせい?


水の少ないガラスの花瓶に生けた一輪挿しの花が殺風景なリビングの隅で寂しそうにこちらを見ている。花瓶の横にはフォトフレームがあり、女性が優しげに微笑んでいた。

あの女性が紺野兄妹の実母だ。


 階段を降りてくる足音の直後、写真の女性と面差しの似た少女と疲れきった中年の男がリビングに現れた。

紺野佳世の夫の宗助は現在四十八歳、佳世とは年の差のある再婚夫婦だ。


娘の萌子は荒川第一高校二年生。疲弊した様子の父や兄と比べれば肌の艶も良く、クマやニキビも見当たらない。

むしろ少女の表情は生き生きとしていた。


「陣内先生とはよく生物準備室でお話していました」

「先生とは何を話していたの?」

「先生が貸してくれた本の話や進路のことを……。陣内先生は一年生の時から色々と相談にのってくれたから今の担任の先生よりも話しやすかったんです」


 荒川第一高校の教頭や現在の担任教師から萌子の情報は聞いている。一年時の成績は体育と家庭科以外はトップクラス。

遅刻や欠席はなく、素行には問題のない普通の生徒だと言う。ただ一点、萌子の対人関係について教頭は言葉を濁していた。


座学では学年トップの成績を誇る萌子の極端に低い体育と家庭科の評価。体育は時にチームプレーを必要とし、家庭科も調理実習がある。

この二教科は何かとペアやグループを組まされる科目だ。教頭や担任は言及を避けたが、萌子は校内でイジメに遭っていたと思われる。


「本を貸してくれたと言ったよね。陣内先生から頻繁に本を借りていたの?」

「私が準備室に行くと、先生が三冊くらい用意しておいてくれるんです。お小遣いだと買えない高い本や図書館にはない本があったりして……そうやって本を借りていました」


 取り調べの際、陣内は一言も萌子の名を口にしなかった。紺野佳世が教え子の母親だと知らずにターゲットに選んだと彼は述べている。


「萌子ちゃんは本が好きなんだね。好きな作家はいる?」

「あまり作家で選んでいないから……。でも梶井基次郎は好きです。桜の木の下の話とか……」

「ああ、梶井の短編集ね。私も好きだよ。梶井の小説も陣内先生が貸してくれたの?」

「そうです」


美夜と萌子の小説談義に九条は加わらず、黙ってコーヒーをすすっている。萌子の両隣の父親と涼太は戸惑いがちに話に花を咲かせる萌子と美夜に目を向けていた。


「最近は先生から本は借りた?」

「……いいえ」


 血色の良い少女は本の話に目を輝かせながらも、受け答えは淡々としている。義理の関係であっても身内を亡くした人間の態度とは思えない。


 陣内の自宅には部屋の半分を占拠する大きな書棚があった。推理小説、純文学、ライトノベル、ゲームの攻略本、様々なジャンルの本が作者ごと五十音順に並んでいる様子はさながら本屋のようだ。


 切り裂きジャックに傾倒けいとうする陣内は、その棚とは別にして切り裂きジャック専用の書棚をもうけていた。

そこには九条が参考資料に取り寄せたものと同じく、古今東西の切り裂きジャックをモチーフとしたフィクション、ノンフィクション小説やDVDが収められている。


けれど彼の蔵書のどこにもあの間宮誠治の[殺人衝動]はなかった。九条の言うように被害者の腹部の十字傷が[殺人衝動]を真似たのだとすれば、陣内の蔵書に殺人衝動がない事実をどう受け止めればいい?


 第一の被害者、初瀬明日美は顔馴染みが偶然通りかかったという理由だけで殺人の練習台で殺された。

第二の被害者、前田絵茉が陣内のメインであり第三の被害者、岡部千尋で彼はさらに飢えた殺人衝動を満たした。


 絵茉の自宅の住所は元担任であった陣内にはいくらでも知りようがある。教師の立場を利用して絵茉の住所を入手した彼は何夜にも渡って絵茉の自宅付近で彼女を待ち伏せていた。


21世紀の切り裂きジャックへ注がれる賛美の雨が陣内の内に潜む狂気の種を育てていく。

そうして何度目かの夜に殺したい女を殺した陣内の殺人への執念は異常だった。


 陣内が使用する北校舎三階の生物準備室からは日暮里南公園がよく見える。日暮里南公園や最寄りの鶯谷うぐいすだに駅で千尋を見かけていた陳内は彼女が以前に自分を接客したデリヘル嬢だと気付き、三番目のターゲットを千尋に定めた。


千尋の出勤状況をデリヘル店のサイトで確認し、派遣社員とデリヘルの副業を掛け持ちする千尋の生活時間帯を完全に把握していた。


 派遣の仕事を終えた千尋の帰宅時間帯に千尋と同じ車両に乗り合わせた彼は綾瀬駅で下車する千尋を尾行して彼女の家を突き止めた。

その日に殺そうと思えば殺せたのに、陣内はまだ千尋を生かしていた。


絵茉の時と同じく何日も闇に紛れて、切り裂きジャックは獲物の登場を息を殺して待ち構えた。そのスリルが何よりも彼を興奮させていた。

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