3-4
葛飾区内の二階建てアパートに辿り着いた萌子の胸中は得たいの知れない感情に支配されている。
派手なピーコックグリーンに彩られた階段と手すりに懐かしい気持ちになったのは、今の一軒家に引っ越す前に暮らしていた古いマンションの階段の塗装も明るい緑色だったから。
「お邪魔します……」
陣内の家は狭くて暗い。カーテンが閉めきられた部屋に彼が灯りを
「凄い。図書館みたい……」
萌子の知る作家、知らない作家、知っている物語、知らない物語、様々な小説が作者名ごと五十音順に並んでいる。
壁面を覆う書架に目を輝かせる萌子は視線をある棚に移す。その棚に並ぶ書物だけは作者名は五十音順ではない。
けれど、不思議な統一性があった。
「……先生。質問してもいいですか?」
『なにかな』
「どうしてここの棚だけ、その……切り裂きジャックに関係する本が多いんですか?」
萌子が指差す棚は切り裂きジャックをタイトルとする書物で埋め尽くされている。
『
「梶井基次郎の話のですか?」
『誰しも心に檸檬の爆弾を抱えている。檸檬が大爆発する妄想で梶井は気が楽になれたんだ』
憂鬱を抱えていた彼は八百屋で購入した鮮やかな黄色い果物をわざと本屋に置き忘れた。レモンを爆弾に見立てた彼はレモンが爆発して店が吹き飛ぶ瞬間の妄想をして気を晴らした。
それが梶井基次郎の檸檬の内容だ。
『妄想で満足できるなら可愛いよな』
「まさか先生が……21世紀の……」
彼女はそこから先を言えなかった。ニュースで騒がれている連続殺人鬼の名称は高校生の萌子でも知っている。
痩せた影はいつの間にか萌子の真後ろに。背後から絡み付く二本の細長い腕が萌子を掴んで離さない。
『殺してあげようか?』
耳元で囁かれた抑揚のない怪物の声は穏やかで優しかった。
「……誰を……?」
『君の“お母さん”』
萌子にとって最も優しい響きを伴うその名詞が意味する人物は萌子にとって最も邪魔な女の呼称でもある。
「……どうやって……?」
『君は何もしなくていい。母親を殺された可哀想そうな娘を演じればいいんだよ』
深淵の怪物を救ってくれたのはもうひとつの深淵。
胸の下に巻き付く細長い二本の影にそっと両手を添える。耳たぶに触れた陣内の吐息が首筋を降りてくると別の意味で身体が熱くなった。
「本当のお母さんが死んじゃってから誰も私を理解してくれなかった。お兄ちゃんもお父さんも私のことをわかっていない。私が何に怒っているのか全然わかっていないの」
わくわくしていた。
そわそわしていた。
どきどきしていた。
「先生だけは違いました。先生は私をわかってくれた。先生と話して、人を殺したくなった私は頭がおかしくないんだって思えたんです。先生、私は正常ですよね?」
『ああ。正常だ』
狂喜と狂気と凶器の挿入。受け入れるだけの萌子の内部に易々と彼は侵入する。
深淵から這い上がった怪物はにゅるにゅると萌子の首回りを這い、やがて彼女に成り代わった。
いいや、これが彼女の本当の姿。
怪物は微笑んでいた。
二人分の笑い声を添えて。
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