2-10

 口をヘの字に曲げた城戸信平が乗り込んだエレベーターが警視庁の一階ロビーに向けて下降する。

聴取の間、九条は城戸の対応を美夜に任せて一言も発言しなかった。


『……クソッ。あの男めちゃくちゃ腹立つ。恋人が殺されたって言うのにデリヘルのことをネチネチと……お前が借金がどうとか言うから被害者がデリヘルやるはめになったんだろうがっ。しかも二股かけて最低最悪な男だ』


今日の九条は気が立っている。口を開けば城戸への当たりが強くなると美夜も九条もわかっていた。


「金をみつがせる側も貢ぐ側も同罪だと思う。城戸が最低最悪なのは同感」

『被害者が可哀想にならないのか?』

「感情は冷静で公平な判断を奪う。殺されて可哀想だとは思うよ。千尋のお腹の子もね。だけど感情だけで捜査を進めるのは危険。感情が邪魔をして真実が見えなくなる」


 エレベーターホールに憮然と立ち尽くす九条に背を向け、美夜は足早に廊下を進む。追いかけてきた九条は張り合うように美夜と歩幅を並べた。


『お前は去年の合同捜査の時から変わらないな』

「九条くんもね」


 警視庁に異動する前は美夜は目黒警察署、九条は代々木警察署に勤務していた。二人が初めて対面したのは昨年に目黒区と渋谷区で発生した強盗殺人事件の合同捜査本部だ。


『初めて会った時から神田とは絶対に合わない予感があった』

「私も正義感が暑苦しい人だと思ってた。一番苦手な体育会系タイプ」

『うるせぇガリ勉インテリ』

「筋肉バカは黙ってて」


何故、美夜のバディが九条だったのか。

今年度捜査一課に配属された新人は五名。他の三人はそれぞれ別の班に散り、三人がバディを組む相手も先輩刑事だ。

美夜と九条だけが新人同士のバディとなった。


「本題に戻るよ。城戸にしてみれば千尋は金鶴。殺すとは思えない」

『本当は妊娠を知っていたなら? 子どもを産む産まないで揉めて……もねぇよな。腹の十字傷は間違いなく切り裂きジャックの仕業だ』


 城戸の反応を見れば妊娠を知らなかったことは一目瞭然だった。千尋が産婦人科の受診をしたのは殺される1週間前。

まだ城戸に妊娠を告げていなかったと思われる。


「城戸がアリバイを言うのを渋った理由には呆れたけどね」

『浮気相手がアリバイ証人って言うのもカッコ悪い話だ』


 千尋の死亡推定時刻である16日の18時から21時の間、城戸は女と一緒にいたと証言している。


妊娠を告げたとしても城戸に堕胎を要求されるか、別れを切り出されていたか。

千尋にとってはどの道を選んでも報われない結末だ。


 自分のデスクに戻った九条は参考資料に取り寄せた切り裂きジャックに関する文献を漁り始めた。

切り裂きジャックを分析した古今東西の犯罪心理学の書物、小説、映画のDVDなど切り裂きジャックを扱ったありとあらゆる資料が九条のデスクに山積みになっている。


『本物の切り裂きジャックは売春婦を憎んでいたと言われてるよな。新聞社に成り済ましの手紙が届いた……って、昔のイギリスも今の日本と同じだ』


 文献によれば1888年9月27日に新聞社に切り裂きジャックの署名つきの手紙が届き、以降も切り裂きジャックを名乗る百通以上の手紙が新聞社に届いた。


多くが連続殺人犯に同調する者やマスコミの自作自演の手紙であったが、9月27日、10月1日、10月16日に届いた最初の三通だけは偽物とも本物とも判断できないとされた。

ロンドンの切り裂きジャック事件は100年以上が経過しても迷宮の濃い霧は晴れないままだ。


 東京に現れた21世紀の切り裂きジャックもマスコミが勝手に名前を付け、SNS上ではやし立てている。切り裂きジャックの成り済ましによる威力業務妨害は後を絶たない。

手紙からインターネットに手段が変わっただけ。時代と国は違えど人の本質は同じだ。


「ネットでの成り済ましは多いけど、“本物”は一度も21世紀の切り裂きジャックを名乗っていないのよね。ネットの成り済ましはほとんどがイタズラや威力業務妨害の嫌がらせ」

『その名前はマスコミが名付けてネットの住人が好き好んで呼んでるようなものだからな。けど奴がイギリスの切り裂きジャックを模倣してるのは確かだ』

「本物は自分が21世紀の切り裂きジャックと名付けられたことをどう思ってるのかな」


 美夜も資料の山から本を一冊抜き取った。切り裂きジャックをモチーフにした推理小説のタイトルは[殺人衝動]、著者はベストセラー作家の間宮誠治。

美夜の記憶が確かならこの大御所作家は10年以上前に殺人事件に巻き込まれて殺されている。


間宮の推理小説は最初のページからむごたらしい殺人場面が事細かに描写されている。飛び散る血の匂いや質感、臓器の表現がやけにリアルで、こんなものを娯楽目的で読む人間の気が知れない。


 美夜はすぐに小説の世界を離脱した。閉じたページをもう一度開く気にはなれない。

現実はフィクションよりも残忍だと彼女は知っていたから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る