2-11

4月19日(Thu)


 春陰しゅんいんのすっきりしない空模様の下でぬるい風が吹いている。朝の通勤通学のピークを過ぎた駅は閑散としていた。


東京都北区に所在するJR上中里かみなかざと駅の隣には跨線人道橋がある。跨線橋は屋根がついたトンネル形式。このトンネルの内部で女性の絞殺死体が発見された。


 昼間は太陽の光が差し込むトンネル内も今日のような曇り空では薄暗い。小山真紀と杉浦誠は盲人用タイルのあちらとこちらに分かれて立っていた。


『仏さんはここに、うつぶせに倒れていました』


警視庁滝野川警察署の男性刑事は身振り手振りで現場の状況を真紀と杉浦に説明する。杉浦は事件の概要をメモしているが、真紀は現場に残るチョークの人形ひとがたを見下ろしたまま微動だにしない。


『凶器は太さ八ミリのロープのような物……またですか』

「まただね」


 被害者の名前は井川楓、北区在住の主婦だ。

死体発見は4月17日の朝6時頃、死亡推定時刻は4月16日の21時から24時。


 楓の交通系ICカードの利用記録によると21時に渋谷駅を利用したことが判明。

渋谷駅から上中里駅までは乗り換えを挟んで約30分だ。

22時に上中里駅下車の記録があり、殺害現場は駅のすぐ側。彼女は上中里駅を下車した直後に何者かに殺害された。


滝野川署の報告によれば駅周辺に不審人物の目撃情報はなく、駅の防犯カメラにも不審な動きをする人間は見当たらなかった。


 上中里駅は二十三区内のJR駅では二番目に乗車人数が少ない。駅周辺は住宅街が広がっている。

従って上中里駅の利用者は大半が付近の住民と言える。井川楓の自宅も跨線橋を渡った先の上中里二丁目だ。


『この手口の事件が起きてから今年の夏で丸2年になります。同一犯なら2年で六十人近い人数を殺していますよ』

「単純計算で1ヶ月に二人以上のペースで殺してるわね。どうやってターゲットを定めているのか……」


 2016年の夏頃から絞殺による不審死が相次いでいる。どの事件も凶器は太さ約八ミリの園芸などに使用される丈夫なロープと推測されているが、それ以外に犯人の目撃情報や手掛かりは皆無。


犯行現場は都内に集中している。これまでに発生した同一手口による絞殺の不審死は二十三区内で四十五件、多摩地域で十一件の計五十六件。

今回の事件で五十七件目となる。


 警視庁ではその都度、一課の捜査員を派遣して過去の連続絞殺事件との関連性を調べている。これが現在捜査中のデリヘル嬢連続殺人とは明らかに別件の事件に真紀と杉浦が呼び出された理由だ。


 滝野川署では出張先の福岡から戻った被害者の夫が事情聴取を受けていた。聴取に立ち会った真紀と杉浦は応接室の隅で妻を殺された夫の様子を観察する。


楓の夫、井川憲市は青ざめた顔を手で覆い、うなだれていた。

井川の涙の理由は妻の死のショックだけではない。楓には親密な関係にある男が複数人いたと見られ、彼女は出会い系アプリ最大手のマッチングアプリに入会していた。


 楓のトークアプリのメッセージの会話を辿ると、彼女は殺害当日の16日に涼太と言う男と一緒にいたことがわかった。

楓と涼太の最後のやりとりは16日の21時50分。


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 楓

 [私も今乗り換えたよ]


 涼太

 [帰り道気をつけて。またデートしようね]


 楓

 [うん。今日は本当にありがとう]

____________


 井川は涼太と呼ばれる人物に心当たりがないと語った。滝野川署では楓が殺される直後まで会っていた男の素性を調べている。


「夫の印象どうだった?」

『取り乱してはいましたが、会話ができるだけ冷静さを失ってはいませんね。妻が浮気相手と会った帰りに殺されたと聞けば激昂げきこうしそうなものですが』

「やけに冷静で泣き方もなんだか嘘くさい」

『動機の点で言うなら井川憲市が最も怪しく見えます。でも奴にはアリバイがありますね』


楓の死亡推定時刻、井川は宿泊先である福岡市内のビジネスホテルの部屋で出張に同行した部下と21時過ぎまで仕事の話をしていた。

これは部下の証言もとれている。


 楓は複数の男と不貞行為を働いていた。

井川が楓の浮気に気付いていたのなら、裏切った妻への殺意が芽生えても不思議ではない。

しかし21時に福岡にいた井川が22時に東京で楓を殺害することは不可能だ。


 これまでもそうだった。連続絞殺事件の関係者で被害者を好ましく思っていなかった人間にはことごとくアリバイがあった。


『とりあえず帰って一課長に報告しましょう』

「そうね。この連続絞殺事件、早いとこ解決させないと未解決事案が増えるってまた奴がぼやきそう」

『芳賀もあっちのチームでしごかれてるみたいですね』


 真紀と杉浦の部下であった芳賀敬太はこの春、未解決事件を扱う特命捜査対策室に異動となった。


『芳賀の奴、廊下で神田を見かけて美人美人って鼻の下伸ばして騒いでましたよ』

「まったく……芳賀くんは懲りないねぇ。デリヘル殺人も暗礁に乗り上げてる。神田さんと九条くんは岡部千尋の職場に行ってるんだっけ?」

『はい。九条が何か気付いたみたいです。今日の捜査で新しい手掛かりが上がってくるといいんですが』


世話を焼いていた芳賀がチームを抜け、神田美夜と九条大河が加入した。以前と顔触れが一新した警視庁捜査一課には確実に新しい風が吹き始めている。


「芳賀くんも九条くんも神田さんも、部下が育ってくれるのは嬉しいよね。大変だけど」

『自分の娘を育てる方が楽な時がありますよ。子どもは素直ですし』

「わかる。大人を育てる方がよっぽど大変。でも私達も若い時にはこうして周りに育ててもらっていたんだなとも思うのよ」


 子どもと違い、自分のやり方や信条、固定観念がある程度確立されてしまった大人の教育は難しい。

どこの業界でも4月のこの時期は新人の扱いに上の人間は頭を悩ませている。


「杉浦さんのところは莉乃りのちゃんが新一年生だよね。学校楽しめてそう?」

『今のところは。毎晩ランドセルを大切そうに眼鏡拭きで磨いているんですよ。だけど本格的に勉強が始まれば莉乃も学校イヤイヤ期が来るかも……』

「学校イヤイヤ期は誰でも一度はあるものよ。そうなった時は莉乃ちゃんと奥さんをしっかりフォローしてあげるんだよ。パパさん」


既婚者子持ちならではの会話を交えて、真紀と杉浦は警視庁への帰路を辿った。

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