2-12
第三の被害者、岡部千尋の人生は順風満帆とは言えないものだった。
千尋の出身は千葉県。県内の私立大学を2015年に卒業、新卒で入社した東京の会社を1年で退職している。
退職の理由は上司と同僚からの陰湿なパワハラとセクハラだった。
その後も第二新卒での転職を試みたが上手く行かず就職浪人となり、2016年春から派遣社員として職場を転々。
同じ頃に彼女は最初の派遣先で社員の城戸と出会い、交際を始めた。
現在の派遣先は今年1月から勤務している。
千尋にとって城戸との結婚と妊娠は千載一遇のチャンスだった。無論、結婚や出産で人生が変わるとは思えないが、結婚や出産を人生の一発逆転の手段とする女も少なくない。
だけど城戸は千尋が思っているような善良な恋人ではなかった。二股をかけたあげくに借金も千尋から金をせびるための嘘。
千尋の副業が風俗業だと知った彼の目は軽蔑の色に染まっていた。
千尋の派遣先の荒川区東
『主任と杉さんが所轄に出向いた別件の事件ってなんだろうな。何か聞いてる?』
「聞いてない。一課長と三人で深刻な顔して話し込んでいたのよね」
駐車場に戻る前に千尋の目撃情報が多く寄せられた日暮里南公園に向かった。尾竹橋通りから脇道に入った美夜はある建物を指差した。
「九条くんが言っていた高校ってここ?」
『そう。前田絵茉が卒業した高校だ』
岡部千尋の派遣先の近くには偶然にも第二の被害者である前田絵茉が2016年に卒業した都立高校がある。
学校の名前は荒川第一高校。絵茉の経歴書類を閲覧した九条は、前田絵茉の出身校と岡部千尋の派遣先が近い位置にあると気が付いた。
美夜は九条のスマートフォンに表示された地図を覗き込む。雲の境目から差す薄日によって見え辛くなる液晶画面を目を凝らして見つめた。
『ここが千尋の派遣先で、千尋の目撃情報があった日暮里南公園、その前にあるのが絵茉の母校』
画面を移動する九条の指を目で追う美夜はある事実を見つけた。今度は彼女の指が画面を這う。
「初瀬明日美が殺された
『そう言えばそうだな。第一から第三の事件の被害者は三人ともこの地区に関係があったのか』
第一の被害者が殺された事件現場、第二の被害者の母校、第三の被害者の職場、すべてが荒川区の日暮里周辺だ。
「前田絵茉の出身校の近くに岡部千尋の派遣先があって、初瀬明日美の殺害現場も近い、これが偶然だとは思えない」
学校の敷地に沿う道を直進して数分で日暮里南公園に到着した。昼時の公園には歩き始めたばかりとわかる幼児が母親と散歩していた。
千尋が日常的に使用していたインスタグラムには3月の投稿で日暮里南公園の桜の写真が載っていた。
彼女は天気の良い日はよくこの公園で昼休みを過ごしていたと派遣先の同僚が証言している。
千尋のインスタグラムには恋人の城戸とのデートの写真、友達と流行りのカフェで食べたケーキ、購入した化粧品や洋服の写真を可愛らしく加工した画像の投稿で埋め尽くされていた。
彼氏の二股、借金の嘘、奨学金の返済、未来の見えない派遣業務、デリヘルの副業、未婚の妊娠、千尋が抱える様々な問題は彼女のインスタグラムの世界には存在しない。
「インスタだけを見れば千尋は人生充実していたように見えた。インスタにデリヘルのことは一切書いてなかったよね」
『ネットではリア充に見せたかったんだろうな。妊娠した身体でデリヘルの仕事こなすのは相当キツかったと思う』
「自分を商品にするのも楽じゃないね」
初瀬明日美にはホストクラブ遊びにハマった時に作った多額の借金があった。
ホストクラブと同系列のデリヘル店で返済額を稼ぎ終えるまでは明日美は風俗業から解放されない。
逆に都内実家暮らしの大学生の前田絵茉は自ら好んで風俗業界に身を投じていた。絵茉にとってデリヘルは小遣い稼ぎの感覚だったようだ。
千尋は月七万の家賃に加えて奨学金の返済と恋人の借金、正社員の職を失い派遣とデリヘルの収入で食い繋いでいた。
女は最後は身体を売ればいいと男は平然と吐き捨てる。
風俗嬢にも売れる容姿と高いコミュニケーション能力が必要となり、不特定多数の男に身体を差し出す覚悟は並大抵のものではない。
女が風俗を好んでしていると思い込む思想が、そもそもの偏見かもしれない。
突如、美夜は視線を上げた。学校の方向に彼女は顔を向ける。
『どうした?』
「今……誰かに見られているような視線を感じた」
今年の役目を終えた桜の木の向こうに学校の四角い窓が整列する。学校の構造はだいたいどこも似たり寄ったりで、北側の端の校舎には専門分野の特別教室が配置される傾向がある。
「絵茉が卒業した年は2016年だよね。2年前なら当時の担任がいるかも」
『絵茉の人となりは散々聞き回ったぞ。お世辞にもイイコとは言えない人間だったって。担任に話聞いても当たり障りのない答えが帰ってくるだけだ』
学校の訪問に九条は乗り気ではない。当時の担任と面会しても絵茉の殺害に関する有力な証言が得られるとは思えない。
それでも美夜はまだ校舎の窓を気にしていた。先ほどの視線がどこの窓から注がれたものかはわからない。
けれどぞっとする嫌な視線だった。こちらの価値を値踏みされているような気持ちの悪い感覚。
腕時計の針の場所は12時16分。学校も昼休みの時間だ。
「担任がいたら会うだけ会ってみない?」
『お前、明日美や千尋よりも絵茉にこだわってない? 俺が千尋の職場の近くに絵茉の母校があるって言った時も学校の位置確認してたよな』
「絵茉だけなのよ」
『何が?』
公園を離れて校舎の方向に足を向けた美夜の横を春の匂いが通過する。ひとつに結っていたゴムの拘束を解かれた黒髪がサラサラと風になびいた。
「……殺意を感じたのが」
この手の犯罪を犯す人間は一概に殺す相手は“誰でもよかった”と口走る。たまたま側を通りかかったから、たまたま見た目が好みだったから、くだらない理由を並べて平気で人を殺す。
前田絵茉の腹部に刻まれた十字架を見た時に感じた明確な殺意。絵茉だけは、“誰でもよくなかった”のだとしたら?
この事件の中心は明日美でも千尋でもない。
鍵はおそらく絵茉にある。
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