Act3.催花雨
3-1
4月20日(Fri)
大学構内を歩いていても学生の視線が自分に向いている気がする。聞こえる話し声もすべて自分の噂話に聞こえる。
そんな被害妄想に囚われた紺野涼太は重たい足取りで廊下を進んだ。講義室に入った紺野に学生達が注ぐ視線は一様に白い。
端の席を陣取る三人の友人の姿を見つけたが、彼らは紺野に気づいても知らぬ存ぜぬを通していた。
──[法栄大三年の紺野涼太がマッチングしてた人妻が殺された]──
昨日からツイッターで出回っている噂によって紺野は学校中から冷やかしの視線を浴びせられている。
噂の出所は紺野の友人だった。
一昨日に自宅を訪ねてきた警察に楓との関係を訊かれ、アリバイや16日の行動を事細かに問い詰められた。さらにはマッチングアプリでの女遊びが家族にバレて激怒した父親の長々とした説教で寝不足気味。
継母は若いうちは女遊びをしたくなるものと父の叱責から庇ってくれたが、どこかこの状況を面白がっている節がある。
楓の件を知った妹は昨夜から口を利いてくれない。汚いものを見るような妹の目付きが堪えられなかった。
苛立ちの吐き出しに彼が選んだ場所はツイッターだ。フォロワーは中学高校や大学の親しい友人が三十人だけの極めて閉鎖的な非公開アカウントなら、本音も愚痴もいくらでも書き込めると思っていた。
軽い気持ちでツイッターに愚痴を書き込んだあの時は、まさかこんなことになるとは思わなかった。
紺野が洩らした井川楓の事件や彼の愚痴を面白がった三十人の中の一人がそれをスクリーンショットして自分のツイッターアカウントで公開したのだ。
非公開アカウントに書き込まれた情報が表に流出する場合は非公開アカウントの閲覧権利があるフォロワーが流出源となる。
信じていた友達の裏切りによって紺野のマッチングアプリ利用と人妻との不倫が表沙汰になってしまった。
マッチングアプリ利用も人妻との火遊びも事実だ。弁明のしようもない。
だが一度表に出回った噂は尾ひれを纏い、ありもしない嘘を延々と垂れ流す。
講義室を飛び交う白い目は妹の萌子と同じ目だ。扉の前で立ち尽くす紺野はどこにも行けないでいた。
半数以上の席が埋まっている。普段なら友人達と同じ席に座ればいいが、あからさまにこちらを避ける彼らの態度には紺野も幻滅する。
紺野がマッチングアプリで出会った人妻の話にあれほど盛り上がっていた連中も結局は面倒事に巻き込まれたくないのだろう。
残っている空席は少ない。
三人掛けの席は両端に二人が座り、中央が空いている席が二列分、カップルの隣、最前列と後ろから二列目は余った椅子に荷物を置いて三人席をひとりで使用している。
三人席をひとりで使用している二人のうちひとりは夏木伶だ。誰もが紺野を避ける中、伶だけはこの空気に無関心だった。
『……ここ、いい?』
『どうぞ』
伶はスマートフォンから顔を上げずに答えた。皆の視線が伶に集まっても伶はそんなことはどうでもいいと言いたげな涼しい顔をしている。
初対面からこの男が気に入らなかった。自分以外の雑事には興味がなく、時には教師さえも見下すような冷めた眼差しを宿す伶が苦手だった。
しかし今は伶の無関心さに救われる思いだ。
中央の椅子をひとつ開けた伶の隣で90分間の講義をやり過ごす。この居心地の悪さが今後も続くと思うと地獄だ。
講義終了後に紺野を置いてそそくさと講義室を去る友人達を彼は遠巻きに眺めていた。噂の流出で友人はどれくらい減っただろう。
マッチングアプリで異性と遊ぶ大学生は珍しくない。遊びたい盛りの男も女も腐るほどいる。
不倫だってそうだ。バイト先の店長と不倫中の女も、紺野と同じようにマッチングで人妻と遊んでいる男もいる。
皆やっているくせに。お前もやっているくせに。
どうして自分だけが後ろ指を指され、父親には責められ、妹に軽蔑されなければならない?
紺野は隣席の伶を一瞥した。だんだんと人が少なくなる講義室で伶はまだ席を動かない。
『俺に言いたいことあるんじゃねぇの?』
『特にはない』
『どうせ、いい気味だと思ってんだろ』
『俺が紺野に対していい気味だと思う理由がないよ』
『お前のそういう上から目線ほんとムカつく』
伶に苛立ちをぶつけるのはお門違いではある。大人げないと自己嫌悪の溜息を吐く紺野の前に飴玉が差し出された。
『なにこれ』
『妹のおやつの余り』
『……これで機嫌直せって? ガキ扱いすんな』
目の前に転がる鮮やかな黄色のパッケージにはシュワシュワレモンと書かれていた。握りしめた飴玉を
『人の噂も75日』
『は?』
『噂話もいつかは飽きる。別の面白いネタが降ってくればそっちに移行するだろ』
『俺は面白いネタ扱いかよ』
『結果的にはネタとして扱われたんだろ?』
伶の身も蓋もない言い様に何も言い返せなかった。
紺野のメンタルの疲労も愚痴も、楓の死すらも、第三者には噂話のネタでしかない。
人がひとり死んでも死に関係がない人間にとっては心のこもらない「ご愁傷さま」を言って終わる。
楓の尊厳とは何だろう。
楓の存在とは何だったのだろう。
『独り言だと思って聞いてくれる?』
『ご自由にどうぞ』
『恋人じゃねぇけど恋人みたいなことしてた人だったから、やっぱりショックだった。たかがマッチングで遊んでただけで、楓さんは殺されるようなことはしていないのに』
正直、当初は楓に腹が立っていた。
楓が殺されたから家に警察が来て、マッチングの女遊びが父と妹に知られてしまった。
楓が殺されなければ友達や同級生に後ろ指を指されることもなかった。
けれど今は自分のせいで噂話のネタにされた楓に申し訳なさを感じている。
謝りたくても声が聞きたくても、楓はもうこの世にいない。
『別に本気の恋愛じゃなかったけど地味にダメージ受けてる』
『そもそも人妻との遊びが向いてないんだろ。割り切れないなら、もっと厄介なことになる前に止めれば?』
はっきり向いていないと言われると逆に清々しい。嫌っている相手に弱音をぶつけている自分が滑稽で笑えてきた。
『お前にひとつ忠告。マッチングの遊びをたかがと思わない人間もいる。それを忘れるなよ』
『わかってる。旦那はいい気しないだろうな。俺は楓さんを殺したのは旦那だと思ってる。そのうち旦那が逮捕されるかも』
『どうだろうね。そんなに単純な事件じゃない気もする』
『どういう意味?』
『人間は臆病者って意味』
去り際に伶が投げた飴はまたしてもレモン味。誰もいなくなった講義室で食べるレモンの飴は泣きたくなるくらい酸っぱかった。
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