3-2

 金曜日の最後の授業終了のチャイムが鳴り響く。週末への解放感に心踊らせた生徒達は清掃の時間もお喋りに興じていた。


 南校舎の廊下掃除を行う紺野萌子を取り囲むのは同じ清掃区域でグループを組む三人の女子達。グループのリーダー格、小林こばやし佑茉ゆまが自分のスマートフォンを萌子に向けた。


「ツイッターで広まってる紺野涼太ってあんたのお兄ちゃんなんだって? 私の彼氏が法栄大なんだけどぉ、大学もすごいことになってるってさぁ」


今日だけでクラスメートや他クラスの同級生から兄の話題をたびたび振られる。兄が不倫していた女が殺されたことで兄は一躍、ネット上で時の人となっていた。


「人妻とマッチングってヤバいね」

「お兄ちゃん犯罪者じゃん?」

「紺野さんはお兄ちゃんが不倫してること知らなかったのぉ?」


 教室にいても廊下を歩いていても皆がスマホと萌子を交互に見てひそひそ話をしている。

兄は事件そのものとは関わりがないと言っていたが、どうして兄の不倫や個人情報がツイッターで広まっているのか萌子にはこの騒動が理解できなかった。


 学校では不倫した男の妹と陰口を叩かれる。家では機嫌の悪い父と嫌いな継母、今は顔も見たくない兄と同じ空気を共有しなければならない。

どこに居ても地獄だ。どこに居ても逃げ場がない。


今日は文芸部の部活も休みたかった。同級生だけでなく先輩や後輩にも兄の醜聞をからかわれるかもしれない。


 引っ込み思案で口下手にあがり症、幼い頃から対人関係の構築が上手くいかなかった萌子は高校でも親しい友達はいない。

中傷から庇ってくれる友人も中傷に反論してくれる友人もいない彼女は今回の騒動で一層、学校で孤立していた。


 帰りがけに靴箱に行きかけた足は北校舎への経路を辿る。吸い寄せられるように向かった先は北校舎三階の生物準備室。


整理整頓の概念が欠如した部屋、顕微鏡を覗く猫背の背中、山積みの本と水槽を悠々と泳ぐメダカの変わらない光景を見ると安心した。

ここが萌子の唯一の逃げ場だった。


『今日は部活じゃないのか?』


 顕微鏡を覗いていた陣内の背中が見えなくなった。椅子のキャスターを引いてこちらを向いた陣内の無表情もいつも通りで安堵する。


「部活も面倒くさくなって、初めてのサボりです」

『文芸部の顧問は古典の宮崎みやざき先生だろ。あの人はサボりには厳しいぞ』


萌子は苦笑いして、水槽の隣の丸椅子に腰かけた。

陣内は部活のサボりを咎めない。唯一の逃げ場を作ってくれる彼の存在が萌子の拠り所だった。


『昨日も来なかったから今日は本を持って来てないんだ』

「すみません。私も持ってくるのを忘れてしまったんです。本は月曜日にお返しします」


 陣内と顔を合わせるのは昨日の生物の授業以来だ。今週は心に生まれた説明がつけられない感情がどろどろに混ざり合って、ずっと苦しかった。

言葉で吐き出したくても感情を咀嚼そしゃくできずにいた。


『何があった?』

「……お兄ちゃんの名前がツイッターに出ているみたいなんです。私はツイッターやってないから、どういうことかよくわからなかったんですけど……」


咀嚼しきれずに溜まっていた感情をゆっくり濾過ろかする。コーヒーの準備をする陣内は手を動かしながら萌子の話に耳を傾けていた。


『お兄さんのことがツイッターで話題になっていると言うこと?』

「はい。……月曜日に女の人が殺された事件があって、お兄ちゃんはその人と不倫していたんです。家に警察が来てお兄ちゃんが取り調べられて……。お兄ちゃんは殺していないと言っていました」


 カップになみなみと注がれたコーヒーを溢さないように一口飲むと冷えた心が温まる。インスタントコーヒーのはずだが、陣内が淹れてくれるコーヒーはいつも美味しい。

今日は陣内も自分の分のコーヒーを淹れていた。


「ツイッターではお兄ちゃんの本名や大学の名前まで出ていて、クラスの皆もそのことで私をからかってくるんです。私は責められるような悪いことはしてないのに……悪いのはお兄ちゃんなのに……」

『お兄さんと話はしてる?』


萌子はかぶりを振った。兄の涼太とは一昨日の夜から一言も話をしていない。

朝に顔を合わせてもどんな態度をとればいいかわからなくて、結果として萌子が無視をする形になる。


「今はお兄ちゃんが気持ち悪く思えて顔も見たくありません。殺された人は可哀想だけど不倫なんて最低……」


 何にショックを受けているの? 何に嫌悪しているの?

兄の男の一面を知りたくなかった。これまで幾度もちらついた兄の女の影にわざと気付かないフリをしていた。


いじめられっ子の萌子を助けてくれる絶対的な味方の兄を他の女に盗られたくなかった。

兄はいつまでも“萌子の兄”でいてほしかった。


 父も継母に盗られた。

兄も萌子の知らない女に盗られた。


イヤイヤイヤ。萌子のモノでいて。

萌子の側で、萌子を守って、萌子に優しくして、萌子の、萌子の、萌子のモノ……。


モエコの、モエコの、と駄々をこねる怪物が心の深淵から怖い顔をにゅっと突き出している。


『……紺野さん』


 陣内の呼び掛けに萌子は我に返った。

深淵の怪物はまだ顔を半分出して、じっと様子を窺っている。深淵と同じ底無しに暗い陣内の瞳が真っ直ぐ萌子を捕らえていた。


『大丈夫? ぼうっとしていたよ』

「……はい。意識が飛んでいたのかな……」


心の深淵に溜まるどろどろを濾過すれば綺麗になると思っていた。けれど濾過して溢れ出るモノは綺麗とは真逆のモノ。


「まだ話していてもいいですか?」

『話したければ』


 今日の陣内は優しい。普段の片手間の相手じゃなく萌子の目を見て話を聞いてくれる。


 コーヒーを飲み干したカップの底にスティックシュガーの塊が溜まっていた。ちゃんとかき混ぜずに飲んでしまったためにコーヒーの最後の一口は砂糖が多くてやけに甘い。


苦いコーヒー色に染まった甘い砂糖。

心に残ったものがこんな風に甘い塊だったらよかったのに。

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