2-8
あと十万……岡部千尋は心の中で魔法の呪文を繰り返して息の臭い男と舌を絡めた。男はぐちゅぐちゅと汚ならしい音を立てながら千尋の唇を侵食し、やがて色の悪い舌が千尋の首筋から鎖骨を撫で回す。
千尋の上半身を唾液まみれにした男は法悦の表情を浮かべて胸の突起に吸い付いた。女の胸に顔を埋めている時の男はどんな男でも赤子に戻る。
そんなに強く吸わないで欲しい。そんなに強く揉みしだかないで欲しい。
風俗を利用する客は女の身体をモノだと思っている。
引きちぎる勢いで胸の突起を吸引する男に向けて下手くそと声を出さずに呟いた。空気に乗って流れた千尋の独り言は髪が後退しつつある男の頭部に当たって消えた。
痛くても痛いとは言えない。これは仕事だ。
男を気持ち良く射精に導くために女は男の欲情を煽る。
感じている演技も楽じゃない。いつまでも胸を舐め回す男の愛撫に千尋は飽き飽きしていた。
この男はたびたび指名をくれるが、なにぶん口臭がキツい。男を接客した後は全身からドブ川の臭いがするのだ。
接客も終盤。差し出された男の分身は今にも破裂しそうな大きさまで膨れ上がっている。
若い頃に比べて勃ちにくくなったという悩みも耳にするが、この男に関しては髪が薄くなっても下半身は現役らしい。
千尋は必死で吐き気を堪えて、たっぷりと唾液を含んだ口に押し込んだ男の分身を舌で刺激する。
気持ち悪くなると適度に手の愛撫に移行し、欲の解放を待った。
今月に十万稼げばこの地獄は終わる。
息の臭い男とキスをして、裸を晒して全身をオモチャみたく扱われ、好きでもない男の射精の瞬間に立ち会うこともすべて今月で終わる。
千尋の胸めがけて盛大に白濁の体液を放出した男はシャワーも浴びずにベッドに大の字になった。
『カンナちゃんさぁ、いつまでこの仕事やる気? もっとちゃんとした仕事した方がいいよ。なんなら俺が口利きしてあげようか?』
腹の出た全裸の男が二言目に口にする常套句も聞き飽きた。萎びた下半身を隠しもせず、自分のことは棚上げの男が語る説教は女を小馬鹿にしている。
風俗を利用する男のどの口が、“ちゃんとした仕事をしろ”と言うのか。風俗はちゃんとした仕事ではないと明らかに風俗嬢を見下す発言だ。
本当は怒鳴り散らしたい。そのだらしのない腹部を蹴り飛ばしてやりたい。
罵詈雑言を口にしそうになる“岡部千尋”の本音を封じ込め、彼女は“カンナ”を演じる。
「もうこの仕事辞めるんです」
『辞めちゃうの? なんで?』
「欲しかったものが手に入るんです。だからこの仕事も辞めようと思って」
『欲しかったもの? バッグやアクセサリーとか? それとも家かな? 高いマンション買っちゃった?』
男の想像力の貧困具合には呆れ笑いしか出ない。曖昧に愛想笑いをして彼女はかぶりを振った。
『じゃあ結婚でもするの?』
「どうかなぁ」
『もったいぶらずに教えてよぉ』
「秘密でぇーす」
可愛い声を出して甘えておけば、どんな男も機嫌が良くなる。裸にバスローブを羽織った千尋は肉付きの良い男の上半身に抱き着いた。
『俺がもう少し若かったら貰ってあげるのになぁ。嫁さんも昔は細くて可愛かったのに今じゃ下っ腹ぶよぶよのババアだから抱く気にもなれなくてね。カンナちゃんが奥さんになってくれたら毎晩が天国だよ』
誰も貰ってくれだなんて言っていないと冷めた心で相槌を打つ。
千尋は心底、男の妻に同情した。
この男はAVの知識でテクニックを知った気になっているダメな男の典型だ。女の身体の扱い方を覚えなければ、男の妻も彼に抱かれたくないだろう。
それこそ毎晩が地獄だ。
老いた女には価値がない、子どもを生んだ女は母親としてのみ生きろ。
そんな時代錯誤で理不尽な価値観が女に呪いをかけていると男達は知らない。
ようやく今日の仕事を終え、桜の気配が消えた夜の街を歩く。以前にこの道を通った時には咲いていた公園の桜も散ってしまった。
散った桜は桜ではない。少なくとも花のない桜を人々は愛でない。
桜は花を咲かせてこその桜であり、花盛りの時期にしか見向きもされない。
女も花と同じだと、漠然とした不安と焦りを感じたのは二十五の誕生日を迎えた昨年の春だった。
来月と再来月は連続で学生時代の友人の結婚式がある。
ひとりは学生の頃も今もさほど親しいとは言えなかった友人で、どう見ても人数合わせの招待だ。
今のタイミングでご祝儀代の出費は痛いが、友達グループの付き合いと体面を考えれば仕方がないと割りきった。
疲れきった足で辿り着いた駅のホームで彼女はスマートフォンを眺める。数分前に恋人に送ったメッセージに返事が来ていた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
[仕事終わったよ。今から帰るね]
[お疲れさま]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
恋人からのお疲れ様の言葉があると今日も頑張って良かった、明日も頑張ろうと思える。
愛しい彼の顔を頭に浮かべて返信を打った。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
[日曜日のデートの時に話があるの]
[何の話?]
[大事な話。会って話したいことなんだ]
[うわー、緊張する(^_^;)]
[あ!別れ話じゃないから安心してね!]
_____________
千尋は黄色い線の内側で電車を待つ間、片手を下腹部に添えた。欲しいものはここにある。
彼女が欲しかった希望はここに宿っている。
この希望のために明日も頑張ろう。
ホームに滑り込んだ電車の窓に千尋の姿が映り込む。停車した電車に映るもうひとりの岡部千尋は、幸せに笑っていた。
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