2-7
『生徒手帳を見せてもらえるかな?』
セミロングの髪を二つ結びにした利発そうな少女は無言でカバンから取り出した生徒手帳を九条に差し出す。
黒革の手帳には赤い椿のマークと金色の文字で紅椿学院高校と刻まれていた。紅椿と言えば港区にある名門の私立女子高だ。
名前は大橋雪枝、学年は一年。どうりで先月まで中学生だったあどけなさが顔立ちに残っている。
『雪枝ちゃんか。家はこの辺?』
「ここから……自転車で10分くらいです」
怯える声はか細くて頼りない。コンビニの表に赤色の自転車が停まっていたが、あれが雪枝の自転車だろう。
『俺が止めなかったら君は店の商品を盗んでいた。これは犯罪だ。わかるよね?』
「ごめんなさい……」
涙が滲む目元に宿る後悔と罪悪感は常習ではなく初犯の反応。
優等生が魔が差して万引きをしてしまう事例はある。雪枝もその類いに思えた。
『そのチョコが食べたかったの?』
「なんでも良かったんです。真面目に生きても損するばかりで、悪いことをすればスカっとするかと思ったんです。……だけど悪いことってスカっとしませんね。悪いことをやる人の気持ちがわからない」
『悪いことをする人間の気持ちなんかわからなくていいんだよ。スカっとしなくて当たり前だ。君はまだ引き返せる』
この世界は真面目な人間が損をする。大人の社会も子どもの社会も、ずる賢い人間が真面目な人間を利用して得をする。
九条はそんな理不尽な世の中を変えたくて警察官になった。
「出してもらったお金、お支払します。いくらですか?」
『いいよ。未成年から金を貰うわけにはいかない。だから二度と万引きしないと約束して。ほら、指切り』
九条の小指に雪枝はおそるおそる自分の小指を絡ませた。賑やかな男子高校生の集団が列をなして店舗を出た直後、二人も女性店員に謝罪をして店を出る。
赤い自転車に差した鍵には小降りなキーホルダーがついていた。やはりこの自転車は雪枝の物だった。
九条は携帯番号を書き記したメモ用紙を雪枝に差し出した。首を傾げる少女に彼は告げる。
『俺の連絡先。愚痴や相談でもなんでも、話したくなったら連絡して。仕事中で出れないこともあるけど、留守電入れてくれたらこっちからかけ直すから』
薄闇に浮かぶ雪枝の表情が少しだけ、笑った気がした。
*
温められたトマトとチーズのパスタは蓋を開けた途端に濃厚なチーズとトマトソースの香りが車内に広がる。
九条の豚ロース弁当も温かい。早く食べなければ冷めてしまうのに九条は自分の空腹よりも目の前で目撃した万引き未遂の聴取を優先させた。
美夜の相棒は根っからのヒーロー気質だ。正義感の塊の彼が時々、鬱陶しくもあり羨ましくもある。
パスタを食べつつ九条の戻りを待った。半分食べ終えたところで窓の外に目をやると、向かい側のコンビニの前に九条らしき男と赤い自転車を引く少女が立っていた。
日もだいぶ落ちてきた。暗がりで見えにくいが、少女の制服は見かけない制服だ。どこの学校だろう?
戻って来た九条はまず豚ロース生姜焼き弁当に箸をつけた。相当空腹だったようで、しばし無言で彼は弁当を
「万引き未遂って女子高生だったのね」
『あの子は紅椿学院の生徒だ。高校一年』
「紅椿? あそこの学校あんな制服だった?」
美夜は所轄時代に紅椿学院の高校生を街で補導した経験がある。
当時の紅椿学院の制服は少女が着ていたブレザーではなく、赤いスカーフを巻いたセーラー服だった。
『制服が変わったのかもな。生徒手帳見たから間違いない。なんで私立の金持ち学校のお嬢様が万引きなんかやるんだろ』
「思春期は
『俺が止めて未遂だったのとコンビニ側も
未遂で終われたのは結果論だ。九条が店内に居合わせなければ少女は商品を万引きしていた。
「連絡先ってプライベートの携帯の?」
『いくら俺でも捜査で支給されてる携帯の番号は教えない』
「あまり深入りしない方がいいと思う」
『助けてって声を上げられない子どもには大人が手を差し伸べてやるもんじゃないか?』
九条とは、ほとほと考えが合わない。
万引きを未然に防いだ九条の判断は大人としても警察官としても正しい。けれどこのままでは少女が万引きをしようとした事実を少女の親は知らないままとなる。
あの少女が自分で親に告げればいい。だが、叱られる行いを親に馬鹿正直に報告する子どもはまずいない。
未成年の犯罪動機は心のSOSの場合が多い。心に溜まった汚泥を吐き出したい、誰かに気付いて欲しい、わざと叱られることをして自分に注目を集めたい。
本当は親こそが子どもの小さなSOSに気付かなければいけない。だけどあの少女のSOSに気付いた大人は親ではなく九条だった。
それでいいのか?
本当にそれでいいの?
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