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 今日もまたページが破りとられたノートが床に放り出されている。一枚、一枚、破られたノートの破片を広い集める紺野萌子は後方から聞こえる耳障りな笑い声に心を塞いだ。


「早く集めないと先生来ちゃうよー?」


あと数分で帰りのHRの時間だ。担任教師はまだ教室に現れない。

だが、教師の登場で強制的にこの公開処刑が終わるほどクラスの人間達は優しくなかった。いつもいつも教師には知られないようにして彼女達は萌子を苦しめる。


 萌子の周りに集まるクラスのリーダー格の生徒とその仲間、そして傍観者のクラスメート。

誰も床に這いつくばってノートの破片を集める萌子に手を差し伸べない。萌子を助ければ次は自分がイジメの標的にされる。

人間は結局、自分が一番可愛い生き物なんだ。


集めたボロボロの数学のノートをカバンに押し込んだところでようやく呑気な顔をした担任が黒板の前に立った。

担任は数分前まで教室で行われていた公開処刑を知らない。知ったところで彼らは何もしてくれない。


 今年度に荒川第一高校の二年生に進級した萌子の高校生活は真っ暗な闇。学校だけじゃない。家に帰っても萌子の憂鬱は続いていた。


(帰りたくない……)


木曜日の今日は所属する文芸部の活動はない。普通の高校生ならば早い帰宅に嬉々とするだろうが、萌子は部活のない水曜日と木曜日が大嫌いだった。


家に帰ればあの女がいる。大学生の兄、涼太は帰りが遅い日が続き、あの女が作った料理を父とあの女と三人で囲む夕食が萌子の日常で最も憂鬱な時間だった。

あの時間に比べれば学校の公開処刑はまだいくらかマシだと思える。


 1時間半ほど北校舎一階の図書室で読書をした萌子の足は、靴箱ではなく北校舎の三階に向けられた。

三階には教科別に特別教室が並んでいる。彼女は廊下の端の生物準備室の前で立ち止まった。


 ノックをして数秒後に扉を開ける。部屋の半分を占めるスチールラックには授業に使う教材や段ボールが雑に収納され、ハンガーを通した黒いジャンパーがラックに引っ掻けてある。


整理整頓の概念がない無秩序な部屋の、さらに無秩序を形成するデスクに白衣姿の男が突っ伏している。正確には突っ伏すようにして顕微鏡を覗き込みながらノートに書き物をしていた。


「先生。あの、紺野です」

『……そこ』


 生物教師の陣内克彦は顕微鏡から目を離さずに右側を指差した。陣内の右側には本棚があり、棚の上にはメダカの水槽と横に本が三冊置いてあった。


『どれでもどうぞ』

「ありがとうございます。前にお借りしていた本、ここに置いておきますね」


図書室で読み終えたばかりの文庫本を三冊の隣に置き、萌子は三冊の本を順に手に取った。今回の陣内のチョイスは詩集と純文学小説、そして推理小説だ。


 一年時の担任だった陣内とは時折、こうして生物準備室を訪ねて彼が所蔵する本を借りている。

きっかけは半年前。一年生の当時からイジメを受けていた萌子は誰もいない放課後の教室で泣いていた。


教室に書類を取りに来た陣内は泣いている萌子を生物準備室に連れて行った。涙の理由を尋ねるでもなく陳内が出してくれた温かいコーヒーは、心許せる友達のいない高校生活で見つけた、たったひとつの救いだった。


 生徒からの陣内の評判はかんばしくない。暗い、無口、いつも顕微鏡で微生物の観察をしているオタク、そんな評価を下されていた陣内のことをその時までは萌子も暗くて怖い教師だと思い込んでいた。

実際の陣内は冷たいようで優しい人だ。少なくとも萌子にとっては、荒川第一高校で最も親しい教師は陳内だった。


陣内は何も言わないが、ここに来ればいつも萌子の分のコーヒーを淹れて小説を貸してくれる。

生物準備室で彼と沈黙を共有しながら小説のページをめくる時間が萌子の癒しだった。


 窓際の椅子に座った彼女は借りた推理小説を膝に置き、ハードカバーの質感に触れた。あらすじを読みながらこれから始まる壮大な物語の想像を巡らせ、物語の扉を開いた。


数ページ読んで少しばかりの休憩。学校で教師に淹れてもらったコーヒーは特別な味がする。


 荒川第一高校の北側に面した道路には桜の木が連なっている。

北校舎三階の生物準備室の窓からは道を挟んだ向こう側の日暮里南にっぽりみなみ公園が見えるが、今は公園の入り口付近に赤い傘を差した人影が立っていた。


「先生は桜の木の下には死体が埋まってると思いますか? 前に貸してくれた梶井かじい基次郎もとじろうの本にそんな短編がありましたよね」

檸檬れもんだろ』

「そうです。その中にありましたよね。桜の木の下には死体が埋まっているって話」


梶井基次郎の短編小説、[檸檬]には“桜の木の下には死体が埋まっている”という印象的な書き出しで始まる物語が収録されている。


 桜は萌子の思い出の花だ。推理小説に挟まる桜のしおりは母が桜の花びらを押し花にして作ってくれた物。

母が死んだ日は病院の側の桜が満開だった。綺麗な思い出も悲しい思い出も桜を見ると甦る。


『美しく見えるものほど他から養分を吸い取っている。植物も人もね』


口数の少ない陣内は聞いたことには答えてくれる。生物教師らしい答えだと思えた。


「私は死んだ後は桜の下に埋めて欲しいです。こんな私でも綺麗な桜の養分になれるなら、そうして欲しいな」


桜の木の下には何がある?

綺麗なもの? 汚いもの?

真実は誰も知らない。誰も語らない。


 役目を終えた葉桜の側で赤い傘が雨に濡れている。まったく動かない赤い傘を萌子は生物準備室の窓から見つめていた。

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