3-10

 ブラインドに閉ざされた窓を雨粒が叩く。ひとりきりの警視庁資料室で小山真紀はパソコンを睨み付けていた。


 閲覧しているのは井川楓殺害事件の捜査資料のファイルだ。

楓の夫、井川憲市は興信所に楓の浮気調査を依頼していた。滝野川署では動揺の素振りを見せていた彼は妻が若い男と遊んでいた事実を知っていた。


浮気に憤った夫が妻を殺害……井川にアリバイがなければその方向性で捜査を進められた。

しかしこの事件を含む一連の連続絞殺事件はそんな単純な構造の事件ではない。


(まさか第三者への殺人依頼……?)


 殺人の動機を持つ者にアリバイがある場合、警察は被害者の関係者以外の第三者の関与を疑う。


古くから存在するヤクザや前科者が殺人依頼を請け負う闇ビジネス、自殺を手助けする嘱託しょくたく殺人や殺人依頼の募集に使用される闇サイト、犯罪に繋がる違法アプリにはサイバー犯罪課も目を光らせている。


 液晶画面を見つめていて目が乾いてきた。目薬を点眼してしばらく休憩していた彼女の耳に扉の開閉音が届く。

資料室に現れたのは捜査一課長の上野恭一郎だ。


「一課長。どうしたんですか?」

『芳賀にお前がここにいるって聞いた。これで糖分補給しておけ』


渡されたコンビニの袋には真紀の好物のエクレアと甘いカフェオレが入っていた。

上野とは真紀が二十代の頃からの長い付き合いだ。彼は真紀の食の好みを熟知している。


「いただきます。……芳賀くんには例の絞殺事件の資料集めを手伝ってもらったんです」

『あまり根を詰めるなよ』


 エクレアにかぶり付く真紀を見つめる上野の眼差しは穏やか。上野は真紀の隣の椅子に腰を降ろした。


『自分の班を持ってみてどうだ?』

「杉浦さんがいてくれて助かっています。私ひとりであの新人二人はキツいですよ」


上野の前では漏らせる本音。口の端についたエクレアのクリームをペロリと舐めて、彼女は心境を吐露する。


「正直あの班を率いていける自信はないです。神田さんの経歴見て驚きましたよ。よりによって、国立大卒で警察学校首席卒業のエリートが私の班だなんて。九条くんは感情がすぐ態度に出るし……」

『今度は人を育てる番だ。小山なら神田と九条の手綱たづなを握れると思ったからお前に任せた』

「それは買いかぶりすぎです」


 エクレアとカフェオレで混ざり合った口の中は幸せの味に満ちている。真紀の幸せそうな顔を横目に、上野は抱えていたタブレット端末をタップした。


『それにしても俺や小山の周りには何かと訳ありな刑事が集まるな。神田も……』

「神田さんがどうかしたんですか?」

『10年前、神田が高校生の時にあいつの友人が殺されてる。神田は死体の発見者だった。これが埼玉県警の捜査資料だ』


 上野のタブレットを借りた真紀はそこにある文字の羅列に視線を落とした。


「2008年の埼玉わらび市女子高校生殺人事件……。埼玉でこんな事件があったんですね」


 被害者は佐倉佳苗、十七歳。現場は隣接する川口市と蕨市を跨ぐ川口蕨陸橋の自転車置き場。

第一発見者であり通報者の欄には松本美夜と記載がある。


「松本?」

『神田の当時の苗字だ。その後に親が離婚して神田姓になったらしい。殺された女子高生は神田の父親と援助交際をしていたんだ』

「父親と友達が援助交際……。なかなかディープな話ですね……」


美夜が警視庁に配属されて3週間、彼女とプライベートな話をする機会はまだない。今後も家族の話題には触れない方が良さそうだ。


『重要参考人とされた不動産会社社長の明智信彦も佐倉佳苗と援助交際をしていた。明智も事件当日の夜に射殺されている』


 タブレット画面が別の事件資料に切り替わる。今度は川口不動産会社社長殺人事件。

2008年3月29日、埼玉県川口市の明智邸で信彦と妻の京香が射殺された。

第一発見者と通報者は明智の一人息子。息子は当時十歳だった。


「被疑者が事件同日に別件で殺されるって……明智は明智で恨みを買っていたのでしょうか?」

『蕨市の女子高校生殺しの犯人は物証からしても明智で間違いないが、同じ日に明智と妻を殺した犯人は10年経ってもまだ捕まっていない』


明智夫妻を撃ち抜いた弾丸は三十二口径。現場からは犯人の指紋や遺留物の採取はできず、明智の息子も犯人の姿は見ていないと証言した。


 明智信彦は自身が殺される数時間前に佐倉佳苗を殺害している。

佳苗は息を引き取る直前に美夜の携帯電話に電話をかけていた。瀕死の佳苗から連絡を受けた美夜が蕨市と川口市を跨がる川口蕨陸橋に向かうも佳苗はすでに事切れていたそうだ。


「神田さんは友達を殺した明智が、同じ日に殺害されたことも明智夫妻殺しが未解決になっていることも知っていますよね」

『だろうな。神田は国立大の法学部から警察に入ったくらいだ。キャリアも狙えたはずが、あえて所轄勤務を希望した神田を上は不思議がってる』


 美夜の卒業した東京国立くにたち市にある国立大法学部は奇遇にも真紀の夫と同じ出身だった。あそこの大学を出ればエリート街道が約束されたも同然。


それでも美夜はわざわざ警察官の道を選んだ。

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