Act2.桜流し

2-1

 ──彼は殺意で研いだやいばで女の腹を十文字に切り裂いた──


        *


 紺野萌子は本のページに桜のしおりを挟んで物語の扉を閉じた。陣内に借りた推理小説は間宮まみや誠治せいじという推理小説界の巨匠が1986年に発表した連続殺人ものだ。


 主人公は切り裂きジャックを盲信する青年。現実と妄想の区別がつかなくなった彼は自身が切り裂きジャックに成り代わって次々と女を殺害する。

スリリングで非現実的な物語に萌子は最初のページを開いた時から夢中になった。


明朝体でデザインされた[殺人衝動]のタイトルは人前で読むには躊躇する。

装丁そうていのデザインや紙質、1980年代前半の時代背景や風景描写に当時の思想や価値観、何から何まで古めかしく、携帯電話やスマートフォンが存在する生活が当たり前の時代に育った萌子には公衆電話の描写が新鮮に映った。


「萌子ちゃーん」


 扉を隔てた廊下で継母の佳世の呼び声がした。非現実世界を旅していた萌子は彼女の声に一気に現実に引き戻される。

佳世は何度も扉を叩いていた。一般的なノックの回数は二回か三回だと高校生の萌子でも知っているのに非常識な大人だ。


 読書を中断して渋々扉を開けた萌子は着飾った継母を一瞥した。春物のコートにブランドバッグを提げ、異様に長い睫毛と赤い唇をした佳世は萌子を見ると微笑んだ。


「出掛けるんですか?」

「友達と約束なの。お夕御飯も食べてくるわ。お兄ちゃんが帰ってきたら二人で出前でもとってね」


千円を差し出した佳世の爪は桜色に染まっていた。萌子にはどんな場所か想像もつかないが、佳世は毎月ネイルサロンに通って爪を整えている。

ネイルサロンだけではない。美容室にエステサロンにピラティススクール、佳世はかなりの金額を美容代に注ぎ込んでいる。


 萌子はすぐさま扉を閉めた。佳世がつけている香水の香りが異臭として部屋に流れ込んできそうで、とても不愉快だ。


 父も仕事の付き合いで出掛けている。兄は飲食店のアルバイト。どちらも帰宅は20時を過ぎる。

千円で子ども二人分の夕食代を出したつもりになっている佳世は千円以上のディナーを食べてくるだろう。大人はいつだって身勝手だ。


 父が佳世と再婚したのは3年前。

二人がどこで知り合ったかは知らない。兄の推測では父と佳世の出会いの場はマッチングアプリか婚活パーティーではないかと言っていたけれど、そもそもマッチングアプリや婚活パーティーがどういうものか萌子には知識がなかった。


いずれにしろ父は十六歳も年下の女を妻に迎えた。萌子と佳世の年齢差も十六歳、兄の涼太との差は十二歳。

佳世を母親と思えないのは年齢差のせいだけではない。


 佳世は金遣いが荒い女だった。佳世に心酔する父は佳世の望む物は何でも買い与えている。二人の子どもへの出資よりも妻への出資を優先する父は再婚して明らかに変わってしまった。


 佳世が来てからこの家はおかしくなった。

子どもをないがしろにして若い妻の言いなりになる父親。

夫の給料を湯水のように使い、父と亡き母がコツコツ貯めてきた萌子達の進学費用まで食い潰す浪費癖のある佳世。


佳世と兄の関係も上手く行っているとは言えず、父と佳世に反発する兄はバイトに明け暮れて家に帰らない日も多い。


 萌子は交通の便と学費の安さを優先して目指していた私立の進学校を諦め、都立の荒川第一高校に進学した。

しかし校風や生徒の気質が萌子には合わず、入学して間もなく孤立した。

おまけに一年生で同じクラスだった女子軍団に目を付けられ、イジメの標的にされた。


何の因果か女子軍団のリーダー格の生徒とは二年生でも同じクラスとなり、イジメは今も続いている。


 昨日新調したノートも明日には無惨な姿にされているかもしれない。父も佳世も兄も、萌子がイジメられているとは知らない。

父や兄に話せば佳世に知られる。萌子は自分がイジメられていることを佳世に知られたくなかった。


 あの女に弱味を握られたくない。

父が浪費癖のある佳世と再婚しなければ、そもそも萌子が学費の心配をして都立高校に行く進路はなく、イジメを受ける未来もなかった。

全部あの女のせいなんだ。

あの女さえ、いなければ……。

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