2-5

 午後4時の渋谷は人で溢れている。誰も彼もがスマートフォンに目を向けているこの街の片隅で井川楓もスマホに視線を落とした。


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 [姉ちゃん出産祝いありがとねー]


 [あんたも親になったんだからこれからしっかりね。そのうち陽香はるかちゃんの顔見に行くから]

 _______________


 二歳下の弟とのメッセージのやりとりを終えた楓は、生まれたばかりの姪の写真が貼り付けられたトークアプリの画面を閉じた。

真っ暗なスリープ画面には溜息をつく女の顔が映っている。


楓が立っているのは神泉しんせん駅南口を出た先のコンビニの前。たった今、目の前の踏切の内側を電車が通過した。


『楓さんお待たせ』


 駅の方向から楓を目指して走って来る男は夫ではない。婚姻の証を外した左手で楓は彼に手を振った。

待ち合わせの相手は紺野涼太。夫や弟よりもずっと若いこの男子大学生はマッチングアプリで出会った相手の中で最もお気に入りの男だった。


『楓さんは鎖骨綺麗だから、そういう胸元開いた服が似合うよね』

「ふふっ。ありがとう。涼太くんは褒め上手だなぁ」


今日のために購入した春物のニットワンピースは襟ぐりが大きく開いている。昨夜、入念にボディケアをして磨いたデコルテが太陽の下で輝いていた。


 腕を組む男と女の歩みはラブホテル街に向かっている。休憩や宿泊の文字が並ぶ派手な看板の内側に二人の姿は吸い込まれた。

大きなベッドに重なる二つの身体。与えられる快楽は抑圧された日常から楓を解放してくれる。


『楓さん綺麗。めっちゃ綺麗』


 紺野は子犬のように可愛い顔をしていても身体付きはやはり男だ。 がっしりとした男の胸板と腕に抱かれていると、彼女は自分が女であることを実感できた。

加速する律動の最中に交わす甘いキス。最後の瞬間は恥も見栄も捨てて、男も女も欲を貪り尽くす獣となる。


 互いの匂いが染み付いた身体を寄せて、二人は天井を仰いだ。絶頂の余韻が残る下半身はまだ熱を帯びている。


『今日は楓さん凄かったね。おっぱい張ってるから生理前?』

「もう。涼太くん胸しか見てないんだから。ヘンターイ」


あんなに抱き合ったのにまだ足りないとばかりのハグとキスの雨。年齢を忘れて馬鹿になれる事後の甘酸っぱい幸せの時間。


「あのね、弟夫婦に娘が生まれたんだ」

『おお、おめでとう。名前は?』

「春生まれだから、ハルカ。太陽の陽に香るって書くの」


 楓の人差し指が空中で踊る。透明なキャンバスに陽香と書き終えた彼女はその指を紺野の指に絡めた。


『良い名前じゃん。太陽の匂いがしそうな明るい名前』

「そうなの。弟が付けたにしてはセンスある」

『ははっ。弟さんセンス悪いの?』

「そうなの。服のセンスが救いようのないセンスの悪さでダサくてね。子どもの名付けだけはセンスあってくれてホッとしたよ」


 楓の物言いに紺野は声をあげて笑っていた。彼の横顔を眺める彼女は紺野の二の腕に額を寄せる。


「変な質問しちゃうんだけどいい?」

『んー、なに?』

「涼太くんの家、再婚して今は若いお母さんがいるって言ってたよね。お父さんと後妻さんはセックスしてるのかな?」


一瞬の間の後の、彼の苦笑いは予想通りだった。両親の性事情を聞かれたら誰もが紺野と同じ反応をするだろう。


『すっげぇこと突っ込んでくるね』

「気を悪くしちゃったらごめんね」

『別にいいよ。まぁ……たまに寝室から喘ぎ声聞こえてくるし、風呂でも仲良くヤってる』

「そっかぁ。後妻さんいくつ?」

『えーっと……確か三十の前半。楓さんより年上だよ』


 紺野の父親は彼の年齢を考えても四十代後半から五十代。そのくらいの年の男になら、女は三十代になっても求めてもらえるの?

三十代の女は夫に求められているのに、どうして二十代の自分は……。


『俺はそういうのに敏感な年齢は過ぎたし構わないけど妹は思春期だからさ。父さんが男の顔してるとこは見せたくないんだよね』

「涼太くんは妹さん想いだよね」


紺野には高校生の妹がいる。彼が語る話題の半分は妹の話だ。

引っ込み思案な性格で友達ができにくい妹の学校生活を紺野はいつも心配していた。


「涼太くんと妹さんにとっては複雑な環境だけど、私は後妻さんが羨ましい。旦那に求めてもらえて……」

『旦那さんとは相変わらずレスってるの?』

「うん。先月も今月も一回もしてない」


 結婚2年目になっても結婚後の夫婦の営みの回数は二桁もない。楓は世間で言われる“レスられ妻”だ。


『こんなに可愛くて優しくて、胸もでかくて色っぽい身体の奥さんがいるのに抱かないなんて。俺だったら我慢できずに毎晩抱いてる』

「ふふっ。夫が涼太くんみたいな人なら良かったのにね」


 元々、夫は性に淡白な男だった。交際当時から身体の繋がりを重視しない彼に苛立ちを感じてもいた。

一緒のベッドで寝ても時には一緒に風呂に入っても夫は楓の身体に欲情しない。

勃たない病気なのではと疑ったが、楓が誘った時にはちゃんと男の機能を果たしている。


 夫は極端に性欲が薄く、性行為そのものが面倒なだけなのだ。

気が向いた時に触れてくれた貴重な夜も、夫の愛撫には楓を満たそうとする心遣いは微塵も感じられない。


前戯の最中に夫を口で気持ちよくさせても夫が口でしてくれたことは一度もない。楓自身は快楽を味わうこともなく、事務的に繋がって早ければ所要時間10分で事が終わってしまう。


情事の甘い余韻すらなく寝てしまう夫の横で女として惨めな夜を何度も過ごした。


 あげくに義両親には孫はまだかと催促される日々。時代錯誤な男尊女卑の思想に洗脳された義母を素晴らしい女性だと褒め称える夫は、マザコンの気があると常々思っている。


あなたの息子が子作りに消極的だから子どもが出来ないのだと、口煩くちうるさい義母に言ってやりたくても言えないジレンマを彼女は抱えていた。


 セックスレスの悩みは実家の親にも友達にも相談できない。言えば哀れみの目を向けられる。

昨年結婚した弟夫妻は早々に娘を授かった。尚更、姉の立場では肩身が狭い。


 子どもの有無以前に、彼女は女の自尊心を取り戻したかった。

楓は二十八歳だ。このまま夫に抱かれない日々を過ごして歳をとる未来を想像すると恐ろしくなる。


『俺はいつでも楓さんを求めてるよ』


 雪崩れ込むように始まった二度目の夢の時間。

情事の相手をマッチングアプリで探すようにしてから少しだけ気が楽になった。相変わらず夫との営みは皆無でも、沸き上がる性衝動は婚外の相手で満たされる。

夫に女扱いされなくても彼らが楓を女として扱ってくれた。


 夫は今日から二泊で福岡に出張。夫以外の男との逢瀬が今の楓の心の拠り所だった。


不倫? 浮気?

そんなことは百も承知。


 子どもが生まれたら何かが変わると思っていた。けれど子作りに消極的な夫との間に子どもは望めない。


こんなはずじゃなかった。

何を間違えた?

どこで間違えた?


 生まれたての姪の写真すらまともに見れず、弟夫婦にまで嫉妬する自分に嫌気が差す。

夢見ていた理想の結婚とは程遠い日常に楓は疲れていた。


それでも離婚を考えないのは夫を愛しているからだと言えたらよかったのにと、自虐的な薄笑いを浮かべて楓は再び年下の男との快楽遊戯に夢中になった。

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