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だが夏木伶にとっての大学生活は、制限時間ありのモラトリアムの枠内で行う知能ゲームでしかない。
学内のカフェテリアの席で昼休みの読書を楽しんでいた彼は不愉快な雑音で現実世界に引き戻された。
『今度は人妻かよ。何歳?』
『今の女は二十八。いつも小遣いくれるんだ。あれが全部旦那が稼いだ金だと思うと旦那おつぅー、ってなる』
『涼太がアプリでマッチングする女って年上ばっかりだな』
『ほら、俺って子犬系の顔じゃん? このタイプの顔って年下好きの女にモテるみたいでさぁ』
『子犬って自分で言うなっ。女喰い散らかす狂犬だろ?』
伶は雑音の輪を一瞥する。伶の席から椅子を三つ空けた場所に四人の男がいた。
話題の中心は経済学部三年の紺野涼太だ。彼は二年生の時に同じ講義を受講していた同級生。
大学の学食でマッチングアプリで出会った人妻の自慢話。誰に聞かれているかもわからないこんな場所で大声で話すには向かない話題だ。
さらに続く紺野のマッチングアプリで出会った女の話に耳を傾けていた伶は思わず鼻で笑った。
これまでアプリで出会った人数は三十人、ワンナイトは十人、人妻が七人、よくもここまで自慢気に数字を語れるものだ。
『……なんだよ夏木。なんか文句あんのか?』
笑われたと気付いた紺野の睨みの視線をやんわりとかわして、伶は文庫本を閉じた。
『文句はない。でも公共のマナーとして声の音量調節の能力は身につけるべきだ。騒がしい学食で喰ってきた女の数を誇らしげに語るにしてもね』
『お前、俺らのこと馬鹿にしてるよな。どうせアプリでしか女捕まえられない可哀想な奴って思ってんだろ? 夏木は黙っていてもモテるもんなぁ?』
小さい犬ほどよく吠える。自分で子犬と自称する紺野はあからさまに伶に噛みついてきた。
言葉の通じない相手とは会話をしたくない。同じ国の人間でも母国語が通じない属性がどこの集団にも一定数いる。
紺野と彼の友人達の煽りを素通りして伶は講堂に向かった。
13時より行われる外部講演のテーマは日本経済の今と未来。登壇者は現在の日本経済の重鎮である三名。
登壇者のひとりは夏木コーポレーション会長、夏木十蔵。戸籍上の伶の養父だ。
講堂内に見知った男を見つけた。壇上の下で関係者に指示を送る男を伶は遠巻きに眺める。
男の仕事が一段落したらしい。伶の視線に気づいた彼がこちらに歩いて来た。
『そうやって真面目に働いているとまともな秘書に見えますね』
『お前もまともな大学生に見えるよ』
男は夏木会長第一秘書の木崎愁。
伶が愁と出会ったのは10年前、今日も愁はあの日と酷似した黒いスーツを纏っていた。
『会長は?』
『控えの部屋で呑気にコーヒー飲んでる。面倒な準備は俺の仕事だからな』
『秘書の仕事は大変ですね』
『要は雑用係みたいなものだ。お前は秘書にだけはなるんじゃねぇぞ』
愁が会長秘書を職にしている理由を伶は知らない。愁とは同じ家で暮らしているが、彼については知っていることよりも知らないことの方が多い。
『ここの学生に紺野涼太って奴がいる。伶と同じ学部の同学年。知ってるか?』
『知ってますよ。さっき学食にいました』
『ふぅん。面白いな』
『何が?』
『そのうちわかる。……そろそろ時間だ』
言葉の意味を説明しないまま、愁は講堂の扉に呑まれて消えた。控え室にいる夏木会長を呼びに行ったのだろう。
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