第3話
「綾、なんかあったの?」
「別に何でもないよ。でもアヤにも、大人を信用し過ぎてほしくない。いつか傷付くから」
「やっぱり…」
何かあったんじゃない。と言いかけたが、それは綾によって遮られた。
「そんな事より!授業始まっちゃう!行こう!」
もっと話を聞きたかったが、これ以上聞いても話してはくれないだろう。そうアヤは判断して、綾に従った。
ねぇ、綾。
この時もう少し食い下がってたら、話しを聞いてあげられてたら、結果は違ったのかな。
それでも容赦なく、時は過ぎる。
アヤは相変わらず、朝練に行く綾に付き合い、家庭科室に篭った。
ワンピースは着々と出来上がって来ていて、あとは裾に刺繍さえ施せば完成だ。
「この刺繍が何より大変なんだよね…」
アヤは手芸は好きだが刺繍は得意な方ではない。でもこのワンピースの裾には刺繍が一番合う。タックやレースでもなく、刺繍だ。
完成させたら、綾と二人で出掛けたいな。冬の空の色だから、春が来る前に仕上げたい。
アヤは刺繍糸を針に通しながら、思う。
「走り込み行くぞー!」
綾の掛け声に、部員全員が「はい!」と返した。
気温は低いが、皆体操服とショートパンツのみ着ていた。暑くなる事が分かっているからだ。
綾は何気なく、アヤが居るだろう家庭科室の方を見上げた。その時…
ぐらり-
視界が揺れた。自分の意思から体が剥離される感覚。綾はその場に倒れ込んでしまった。
「柿崎!!」
トミーの声が聞こえる。
返事をしたいのに、返事ができない。それどころか顔を上げる事も出来ない。目眩で視界が定まらない。耳鳴りもして来た。
あたし…このまま死ぬのかな
それならそれでいいのかな
この体のまま死ねるならいいのかな……
綾が保健室に運ばれた事がアヤの耳に入ったのは、朝の会が始まるちょっと前だった。
担任に呼ばれ、耳打ちされて初めて知ったのだ。
アヤは担任の制止も聞かず、保健室に走った。階段を駆け上がり、ここまで早く走った事など無いというほどのスピードだった。
この間来たばかりの保健室の扉は開いていて、アヤは転がり込むように中に入った。心臓が痛いほどドクドクと鳴っている。
「綾!」
思わず養護教諭の足が見える場所のカーテンを思いっきり開けてしまった。
「野原さん!?シー!静かにしなさい!今寝てるのよ。」
先生は厳しく叱咤した。
アヤはそれもそうだ、と思った。保健室のベッドに横たわる綾の顔色は明らかに悪い。唇もカサカサで青白い。
「先生…綾は大丈夫なんですか?」
「申し訳ないけど、医者じゃないから軽々しくは言えないわ。でも…そうね、過去に過労で倒れた生徒も、こんな風になっていたわ。」
「過労!?」
「確かじゃないけどね。居るのよ、部活頑張り過ぎたり、受験勉強頑張り過ぎたりする生徒がたまーに。これから親御さんが迎えに来て病院に連れて行くそうだから。」
先生は窓際の机に座り、何か書き物を始めた。綾に関する事だろう。
私はドクドクと鳴る心臓を抑えて、改めて綾の顔を見た。過労?過労だとしたらいつからだろう。どうして気付けなかったのだろう。
「さ、そういう事だから、野原さんも教室に戻りなさい。」
私がここに居ても出来ることは何もない…でも…
「先生、綾の親御さんが来るまでここに居たらダメですか?」
「ここに?ダメ、ダメよ、授業があるでしょう。来年受験生なんだから、授業は大切よ。」
「今日の分はちゃんと補習を受けて取り返します、どうかお願いします。」
手を顔の前で汲んで、いかにも必死という顔で先生の目をじっと見た。
「…はぁー、仕方ないわね。じゃあ親御さんが来るまでだからね。」
「先生!ありがとう!」
早速、綾の枕元に立って、綾の顔を改めて見た。…気付けなくてごめんね。
朝練して、部活に出て、帰ってからも自主練をしてると言っていた。それが負担だったのかな。こんな細い体で…
「野原さん、椅子使いなさいな。」
先生は背もたれの無い丸椅子を持って来てくれた。
そこに腰を下ろすと、綾の顔が近づいた。
「綾…」
あの意志の強い瞳は閉じられて、長いまつ毛は光に当たってキラリと輝いていた。
そっと…そっとそっとゆっくりほっぺに触れると、暖かくてホッとした。
生きてる…
ねぇ、綾。あなたにとって、走る事は身を粉にしてもやりたい事なんだね。でも…と、そこまで考えて、慌てて首を横に振った。
そんな事考えちゃいけない。綾は頑張ってるんだから。
コンコンッ
その時保健室のドアを遠慮がちにノックする音がして、アヤはカーテンの向こうのドアを振り返った。
「すみません…柿崎綾の母親です」
「柿崎さん!待っていましたよ。入って来てください」
ガララ…
ゆっくりとドアが開く音と、足音が聞こえる。
「すみません、この度はご迷惑をおかけ致しまして。」
「全ー然!迷惑なんかじゃ無いですよ!お母様こそ、さぞご心配でしょう。病院までは車で行かれるんですか?」
「はい、そのつもりです」
「柿崎さんはこっちで寝てますよ、起こしますね。」
足音が近づいて来た。
綾のお母さんに会うのは久しぶりだ。
シャッとカーテンの開く音と共に、窓から日差しが差し込んできた。
「あら、アヤちゃん。綾についててくれたのね?本当にありがとう。」
「おばさん…お久しぶりです。いえ、私が先生に無理言って居させてもらいました。」
「アヤちゃんたら、随分大人みたいな事言えるようになっちゃって。なんて、今話すことじゃないわね。でも幼馴染の母親にそんな気を遣わないでいいのよ。さて、綾を起こしていいかしら?」
「あ、どうぞ。綾はよく寝てます。」
「最近、朝も起きるの辛そうだったから、疲れが溜まってたのかしら。ほら、綾、起きなさい。」
綾の母親は綾の体を揺り動かした。
「ん…」
綾は眉間に皺を寄せて眩しそうな顔をした。
「綾?アヤだよ。起きて」
綾の耳元に話しかけると、
「え、アヤ…ママも?」
綾は何が何だか分からない顔をした。
無理ももない。倒れてからの記憶がないのだろう。
「綾、部活中に倒れたんだよ、ここは保健室。これから病院に行くんだって。」
「病…院?それより眠いよ…」
アヤは布団を頭から被ろうとした綾を止めた。
「柿崎さん、起きるの手伝うわ。」
先生が来て、綾の上半身をいとも簡単に起こすと、綾の片腕を自分の肩に担いだ。
「ほら、先生に捕まりなさい。ゆっくりでいいからね。お母さんは荷物お願いします。」
この中年の女性教諭にどこにそんな力があるものだと、つい感心してしまう。
お母さんも同じだったようで、声をかけられても、反応が一呼吸遅かった。
「は、はい!ありがとうございます!」
アヤはベッド脇に置いてあった綾の鞄を母親に渡した。
受け取る時、母親は一瞬動きを止めた。
アヤが不思議がっていると、
「アヤちゃんは…聞いた?綾の進路の事…」
「進路…ですか?いえ、陸上が強い所に行くとは言ってましたが…」
「そう。それならいいの、変な事聞いてごめんなさいね。それじゃあまたね。」
「はい…」
アヤの頭中はハテナマークでいっぱいだった。
綾…進路変えるの?でもそしたら何か言ってくれる筈。そう思ってるのは私だけなのかな。
母親を引き止め無理に話を続ける訳にはいかず、アヤの中にはモヤモヤだけが残った。
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