第32話「母皇帝の眼差し」

 灯牙トウガは目を疑った。

 とらわれのアルテアを引きずり回す、得意げなニャルラトホテプ。その前に、一人の少女が舞い降りたのだ。

 彼女は、手にした剣をガン! と大地に突き立てた。

 剣のつかに両手を重ねて、真っ直ぐ矢のような視線でニャルラトホテプをにらむ。

 そんな少女の名を、背負ったソリアがつぶやいた。


「嘘……母皇帝様ぼこうていさま

「えっ?」

「どうしてここに!? いえ、何故なぜ? 間違いないわ、母皇帝……アルル様!」


 ――母皇帝アルル。

 それが少女の名か。

 改めて灯牙は、ざわめく民衆の間を割って進む。

 視界が開けると、そこにはりんとした乙女の横顔があった。

 彼女は、簡素な二部式の着物にはかまをはいている。質素極まりないいでたちだが、全身から清冽せいれつなまでの覇気がみなぎっていた。

 灯牙には、その横顔がどこかで見たように感じられた。

 母皇帝アルルは、静かによく通る声でニャルラトホテプを問いただす。


「止まれ、ニャルラトホテプ……ソリアは我が忠臣。唯一、のみが生殺与奪を握る者だ」

「おんやあ? おいおい、隠しキャラ? 隠れとけよ、ったく……手前てめぇはオレサマの」

「さえずるな、邪神! 貴様など、旧世紀の亡霊に過ぎぬ」

「ならよぉ、その亡霊サマに頼ってんのは誰だぁ? ええ?」


 ざわめきが周囲の民に伝搬でんぱんしてゆく。

 あっという間に、お祭り気分の戦勝ムードが凍りついた。

 そして、灯牙は見た。

 騒ぎの渦中かちゅうにあって、アルテアのひとみにはまだ光があった。

 アルテアはまだ、諦めてはいない。

 彼女は誰かを探すように首を巡らし、灯牙は声を出さずに心で叫んだ。その名を叫ぶようにして、彷徨さまようアルテアの視線を待つ。

 二人の眼と眼が合うのは、奇跡に近い。

 だが、灯牙を見付けてアルテアは小さく驚いた。


「アルテア! くっ、どうすれば」

「姉様! 駄目よクトゥグア。慎重に……それと、アルル様が」

「わかってる! でも、目の前に……すぐ手が届くところにアルテアが」

「姉様を助けなきゃ。でも……私には、母皇帝たるアルル様のことも」


 自分を隠すマントを脱ぎ捨て、ソリアは灯牙の背から降りた。

 だが、よろけてその場にへたり込む。

 魔王の戦衣せんいを着込んだソリアに、周囲は目もくれない。全ての人間が今、睨み合うアルルとニャルラトホテプを見詰めていた。

 重苦しい沈黙の中、アルルが口を開く。


「我が名は母皇帝アルル! レヴァイス帝國ていこくべしキタブのおさ、キタブ・アルル=アルジーフ! 余の言葉は帝國の法と知れ、ニャルラトホテプ!」

「へいへい、ほんで?」

「ほんで、ではない! 何故ソニアを処刑など……我がしんソニアは、帝國にそむいてはおらぬ!」


 だが、奇妙な余裕でニャルラトホテプは悪びれない。

 彼が手にした鎖を手繰たぐれば、灯牙になにかを目配せしていたアルテアが転倒した。彼女はそのまま、ニャルラトホテプの足元まで引きずられてゆく。

 そして、ニャルラトホテプはアルテアの身体を足蹴あしげに周囲をあおった。


「おうおう、帝国臣民の皆さんよぉ! 神聖なる母皇帝アルル様が、なーんか言ってんだけどぉ? へへ……じゃあ、教えてやろうか! 誰がオレサマを召喚したかをなあ!」


 周囲が静まり返った。

 すでにもう、楽団の演奏も途絶えている。

 パレードは止まり、参列する兵士たちも混乱の渦中にあった。

 ニャルラトホテプは、わずかに無表情を歪めるアルテアをにじりながら、声を張り上げた。だが、その言葉をアルルが遮る。


「黙れ、下郎げろう! ……フン、よかろう。皆も見るがよい! これなる邪神をアースティアに招いたは、余だ! これがっ、そのあかし!」


 不意にアルルは、もろ肌脱いで右半身をさらした。

 白い肌には、肩から胸にかけて禍々まがまがしい紋様もんようが浮き出ている。それは不気味に明滅しながら、誰がニャルラトホテプの召喚主であるかを無言で物語っていた。

 そして、灯牙はようやく合点がいった。

 あの日あの時、あの瞬間……灯牙は確かに、ニャルラトホテプを倒した。

 禁じて封じた邪神のほのおで、ちりも残さず焼き尽くしたのだ。

 だが、ウルス共和国の首都で倒した筈のニャルラトホテプは、その後何事もなかったかのように復活した。今度は、旧世紀の負の遺産、恐るべきギガントルーパーを連れて。


「そうか、再召喚……俺と同じだ! ソリアさん、奴は」

「なんてこと……どうしてアルル様が召喚を。いえ、まさか……以前、確か」


 そう、灯牙にも記憶があった。

 ニャルラトホテプは以前、こう言っていた。


 ――帝國と共和国の背後に暗躍し、双方が戦争を続けるように仕向けている、と。


 だが、まさか両国に召喚者を用意しているとは思わなかった。ニャルラトホテプは、自分がこのアースティアから取り除かれることを警戒し、予防線を張っていたのだ。

 恐らく、両方がスペアであり、どちらが欠けてももう片方で補完する仕組みだ。

 だから、以前は幼いキュクルを使い潰し、使い捨てた。

 召喚主はニャルラトホテプにとって、替えの効くただのリソースに過ぎないのだ。


「余は貴様を召喚し、邪神との契約に応じた。それは、古くよりウルスとレヴァイスで取り交わされてきた闇の密約。それを履行りこうしたまで! だが、貴様はなんだ! 何故、そうまでして戦争の継続を望み、今また突然ウルスを滅ぼすのだ!」

「カハハッ! そうさ、オレサマは這い寄る混沌こんとん……っていうか、戦争こそが最高にイカレたゲームじゃねえか! ええ?」

「余とて国を統べる皇帝! 遊戯ゆうぎ気分で戦を続けている訳ではない。そう、そういうつもりではなかった……ソリアの行動は、そんな余の意をんだ動きであった!」

「ただの裏切りだろ、ハッ! で……お前さんのかわいいソリアはどこだって?」

「貴様が足蹴にしておるであろう! その汚い足をどけよ!」


 アルルは剣を抜き放った。

 そのまま無防備に歩み寄ってゆく。

 どうやら彼女はまだ、アルテアとソリアが入れ替わったことに気付いていないらしい。

 ニャルラトホテプは近付くアルルを平然と見やりながら、いやらしい笑みを浮かべていた。


「いけない、クトゥグア! アルル様が!」

「クッ、やるしかないのか……だが、奴がもしアルテアを」

「ちょっときみ、邪神なんでしょ! 姉様とアルル様を助けて! どんなに炎を、魔力を使ってもいいから! 私から好きなだけしぼり取ってもいいから!」


 ソリアの言葉に応じる訳にはいかない。

 灯牙が力を使えば、その魔力の反動は呪いとなってソリアを襲う。アルテアでもソリアでも、その痛みにしなまれていいはずなどないのだ。

 だが、灯牙が決断できずにいる中、ニャルラトホテプとアルルは向き合う。


「我が帝國、そして共和国にも……長引く戦争の終わりを望まぬ者たちがいた。違うか?」

「へへ、隠しキャラがよく喋んぜ、アァ? それがどうしたよ、だったらどうする!」

「戦で利益を得る者は、あるいはそう考えるやもしれぬ。だが、余はせぬ……ニャルラトホテプ、貴様の真意はなんだ! 何故、蝙蝠こうもりのように跳梁ちょうりょうし、戦争の継続を望む!」


 剣の切っ先を向けられてなお、ニャルラトホテプは薄ら笑いを消そうともしない。

 それを見た、全ての人間が凍えてゆくのが灯牙にも感じられた。

 灯牙自身、背筋を這い登る悪寒おかんに震えが止まらない。

 ニャルラトホテプは、なにか目的があって行動しているのか? それとも……彼こそがまさしく、混沌そのものなのか。そこに人間の理屈や論理などないのか?


「よぉ、アルル……手前ぇはオレサマの召喚主、つまりこの世で最高、最強の力を持ってるんだぜ?」

「余が求める力は、民を守るものぞ! それがキタブの一族に課せらし使命。かつて星滅戦争ノーデンス・ウォーと呼ばれる破滅の中で、我が始祖は全ての叡智えいちを封印し、新たにここへ国をおこしたのだ」

「けど、戦争が常態化してよぉ……安定して戦争でもうけられるとわかった連中がいる。そいつらが最初にオレサマを呼び出した。そしてオレサマは……両陣営を行き来し、戦争を長引かせた」

「何故だ! 答えよ、ニャルラトホテプ!」


 アルルの詰問きつもんに、ニャルラトホテプは再度鎖を引き上げる。

 まるで盾にするように、苦しげなアルテアが片手で吊るされた。


「見ろよ、こいつは手前ぇの大事なソリアかぁ? レヴァイスの剣姫けんきってなあ、こぉーんなけしからんカラダだったかなあ、ヒャハハハハ!」


 ニャルラトホテプの手が、無遠慮にアルテアの胸をみしだく。

 だが、アルテアは悲鳴一つあげず、灯牙へと目配せして黙った。

 そして、その意図するところが灯牙にも伝わる。

 不思議と、こんな時でも互いの信頼がはっきりと感じられた。


「ソニア、落ち着いて聞いてくれ。今から、ちょっと行ってあいつを……ニャルラトホテプをブッ飛ばしてくる」

「クトゥグア、君……え、どうやって? なにをしようというの?」

「さっき、アルテアもできると言った。いや、言葉はないけど……そう伝えてきた!」


 灯牙の強い言葉に、気圧けおされつつもソリアが頷く。

 そして灯牙は、自分の考えを伝えた。

 上手く行けば、瞬時にニャルラトホテプの側まで移動できる。そして、アルテアとアルルを救えるだろう。

 そして、次こそ最後にしなければいけない。

 今度こそ、ニャルラトホテプを倒さなければいけないのだ。


「ちょっと、クトゥグア……君、本気なんだね?」

「ソリアさん、タイミングを合わせてくれよ? アルテアとは姉妹だから、呼吸を重ねることだってもしかしたら」

「やってみる、けど。でも、失敗したらクトゥグアは」

「失敗しない! ソリアさんもアルテアも、必ず上手くやる。俺はそれを信じてる」


 根拠はないが、一発逆転の手はある。

 そして既に、そのあとのことも灯牙の脳裏に浮かび上がっていた。今度こそ、ニャルラトホテプを倒す。使。そして、なるべくニャルラトホテプにも魔力を使わせない。

 そう決意して立ち上がれば、灯牙は再び光を帯びて輪郭をほどき始めるのだった。

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