(五)祓への詞を奏上せり

 野菜を買いに行ったはずが、戻ってきた彩は、さっきのとは品種の違う、茶色いニワトリをかかえている。羽毛をき散らして暴れるニワトリのクチバシを、必死に摘まんでつつかれないよう押さえつけながら、かろうじて彩は頭を下げた。「……ごめん。やっぱり野菜は無理だった。どっちへ向けば畑に行き着くか、わかんなかったし」

 畑より、養鶏場の場所を探し当てるほうが難しいのでは、という言葉を呑み込む。クーラーボックスいっぱいの魚に目を落とし、それから、いま彩がかかえているニワトリを見つめる。稲穂はいぶかしげな表情を浮かべた。「え。買ったんじゃないの?」

「ち、直売よ、直売」稲穂の怪しむ雰囲気を察知してか、彩は片手をげて稲穂の言葉をさえぎりつつ、首を激しく横に振って否定する。「断じて盗ってない。神に誓って! あたしの頭には神が宿ってるから!」

 ツッコみたいことが、いろいろとありすぎて、脳の処理が追いつかず、逆に口をつぐむ。そこまで強く疑ってはいなかったものの、彩のひたいに汗がにじんでいるように感じ、その言動が、かえって不信感を招きかねない。反論を受けつけないかのようにまくし立てたのち、彩は「買ってくるね、野菜は」と言い残し、この場から立ち去っていった。

 最も近いスーパーでも、徒歩は二時間かかったはず。バスで行っても迂回するし時間も決まっているから、帰ってこられるのは早くても三時間後になるだろう、と思っていたのだが、あっという間に彩は帰宅してきた。出て行ってから、一分もかかっていない。電話でもしたのだろうか、彩いわく「知り合いに持ってくるよう頼んだから。もう少ししたら届くと思う」とのことだった。

 その知り合いを待っているあいだ、彩は惚れ惚れとするほどの手際てぎわを発揮し、さばいた魚をジップロックへ小分けにして入れ、冷凍庫のなかに詰め込んでいく。その横で、なにも朝から食べていなかった稲穂は、朝兼昼の食事を用意するため、とりあえず、いくつかの食材を冷蔵庫のなかから引っ張り出してきて、キッチンカウンターの上へと並べていく。そして、フライパンや俎板まないたを準備しつつ、いまあるもので、なにがつくれるかを考える。台所まわりも、さっき掃除したばかりだったのだが、それはまた洗えばいい。

 母が仕事で手が離せないときに料理をつくっていたことも多いから、数ある家事のなかでも得意の部類だ。メイラード反応の香気が立ち込めるにつれ、彩は鼻をひくつかせ、ぼそりと「美味おいしそ」とつぶやく。ちょっと作業してくるね、と言って外へ出ていく彩を見届けたあと、もう一人前の分量を追加して、稲穂は調理を再開した。

 それから一時間後、稲穂が食事を済ませるにも十分じゅうぶんなほどの時間が経過したのち、皿洗いをしているとき、大きな袋を持参した彩が戻ってくる。洋服には、べったりと返り血が飛び散っていた。なにそれ、といていいものなのか躊躇ためらっていると、家のインターホンが鳴る。彩は「きたきた」と手をみながら玄関へと向かった。

 濡れた手を拭きつつ、あとを追って稲穂もついていくが、ひょこっと顔をのぞかせた彩の腕には、もうすでにダンボールが抱えられていて、届けてくれたという知り合いの姿は確認できない。おまけに妙な静けさを帯びていると思ったら、風除室のなかで騒がしく鳴いていたはずの、牛や豚の姿も見当たらないことに気がつく。稲穂と彩は一箱ずつ受け取り、冷蔵庫の前まで運んで、野菜室へと詰め込んでいった。

「けっこう多かったね。これ以上は入らなさそう。一週間は持つかな、たぶん……」

 彩は不安げな表情で、稲穂のほうへ目を向ける。その視線は稲穂の腹へと注がれ、いかにも「健啖家けんたんかだけど」みたいなニュアンスを感じ取った。それから彩は、祭壇のほうへおもむろに歩みを進めると、ダンボールから適当に取り出した野菜と、塩を盛った小皿、そしてクーラーボックスから取り出した魚を一尾まるごと、白米の盛られた皿の隣りへ並べて載せる。

「んじゃあ、次は……」ガサゴソと、いつの間にか出現していた巾着のなかをまさぐり、数枚のおさつ大の紙切れを、彩はつまみ出した。「このおふだを、窓という窓に貼ってほしいの。ガラス一枚につき一枚ね」

 稲穂は受け取ったお札を、いまいるリビングの窓から順番に貼っていき、一階から二階へ、家のすみから隅まで移動する。不思議なことだが、そのお札はのりもついておらず濡れているわけでもないのに、難なくぺたりと貼ることができた。ちょうど持っていたお札をすべて消費したところで、全部の作業を終えてリビングへと戻る。

 風呂場のシャワーから、水が勢いよく出てタイルを弾く小気味のよい音が聞こえていた。覗くと、服が無造作に脱ぎ捨てれている。少しして、火照ほてった身体をタオルに包んだ彩が「使わせてもらってたよ」と事後報告する。どこから用意したものなのか、巫女みこ装束を身にまとって再び登場した彩は、大幣おおぬさを手に構えていた。コスプレのように感じたのもつかの間、ごく真面目な表情の彩に促され、稲穂は祭壇に向かい合うような形で正座する。

「じゃあ、始めようか」

 これらは、いったい、なにを意味しているのだろうか。このときの稲穂は、知るよしもない。

 彩は深呼吸したあと、祭壇へ向かい、二拝二拍手一拝をする。口元を隠すように大幣を顔の前で持ち、次に稲穂へ向かって「低頭ください」とおごそかにささやいた。今度は優しい口調で「頭を下げるんだよ」と告げ、稲穂はその指示に従って低頭する。きものを払い落とすように、稲穂の肩を軽く大幣でさする仕草をした。それから、彩は「あたしは陰陽師おんみょうじじゃないから、鬼を封印するような呪文は知らないけど」と前置きしたうえで、なにごとかを唱え始める。

けまくもかしこ伊邪那岐大神いざなぎのおおかみ筑紫つくし日向ひむか橘小戸たちばなのおと阿波岐原あわきはら禊祓みそぎはらたまいしときにせる祓戸はらえど大神おおかみたち……」稲穂の周りをぐるりと巡るあいだに、両肩を二度ずつさすり、今度は大幣で稲穂の頭を軽くはたく。「諸々もろもろ禍事まがごと・罪・けがれあらむをば祓え給い、清め給えともうすことをこしせとかしこみ恐み白す……」

 稲穂の正面へ彩が戻ったところで、ちょうど祓詞はらえのことば奏上そうじょうが終わった。彩は大幣をテーブルへ横たえると、白衣の襟元えりもとから紙を出し、そこにボールペンでなにかを書き込んだあと、その紙を稲穂へと手渡す。受け取った紙には、全文がひらがなで書かれていたので、小学生でも読める。なにかの呪文のようで「はらえたまい きよめたまえ かむながらまもりたまい さきわえたまえ」と、稲穂が少し口ずさんだだけでも、身体がポカポカしてくるような感覚になる。どうやら本当の呪文らしい。

「毎日一度、これを唱えて。お風呂に入るときがいいかな。シャワーを浴びながら、同じことを三回」彩は三本の指を立てて、いい? と念を押した。「これを一字一句、間違えずに唱えるのよ。それを七日間、続けて」

「彩も出ていっちゃうの?」

「いま、この家は護られているから平気よ。家のなかにはいられないけど、外で見張っているから大丈夫」不安げな稲穂を見かねてか、また鬼が現れたら退治してあげる、という心強い言葉が、彩の口から出てくる。「だからね、お願い。七日間は、なにがあっても、この家に人は入れないで」

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