(三)鬼女の脚を奪はれまいと

「ふぎゃっ!」

 風が巻き起こった瞬間、市兵衛は屋根の上から戦況を観察していた。風の一端がぶつかっただけなのか、それとも鬼女本体がぶつかってきたのか、スピードが速すぎて見えなかったが、身体を吹き飛ばされてしまったのだということだけは、市兵衛にもわかった。屋根を数メートル転がり、背中を強打して勢いづいた身体は、そのまま上空へと放り出される。

 このとき市兵衛は、一匹だけ戦いに加わらず、別の作業をおこなっていた。くわえていた鬼女の右足をそばへ置き、前脚を使って、器用に団子の入っていた風呂敷を広げる。そして、代わりに鬼女の右足を入れて包み、また器用に結んだコブの部分を咥えて、そっと屋根から下を覗き込んでいたのだ。

 身体が空中に放り出されたとき、悲鳴を上げた市兵衛の口から風呂敷が離れてしまう。市兵衛が回転するたび、目の端にとらえた風呂敷の大きさは、どんどんと小さくなっていく。制御の利かない空中ではどうしようもなく、前脚を伸ばしてみても届きそうにない。そう思って人間に化けてみるも、わずかに風呂敷へは腕が届かなかった。

っ……」

 努力の甲斐かい虚しく、人間の姿のまま落下を続けていき、激痛が全身を襲った。受け身に失敗した市兵衛は、地面を転がって樹木へ頭を打ちつける。市兵衛は、しばらくその場で悶絶していた。起き上がりながら、背中をさすろうとしたとき、そこで初めて、自分が一糸纏いっしまとわぬ姿であることを知る。

 見おろすと、まず目に飛び込んできたのは、くっきりと割れた谷間。頭をでれば、髪の毛のあいだから耳が生え、腰をひねって臀部でんぶを確認すると、尻尾しっぽが生えているだけで、ほとんどがメスのヒト型だった。道理で変化を解けないほどの痛みだ、と市兵衛は納得する。胡坐あぐらをかき、人間、まして裸の状態では、そりゃあ一階半の高さから落ちたらそうなるわな……。どうして人間には毛がなく、こんなにも身体能力が低いのだろう。

「なにをしているんだ。大丈夫か?」とおりかかった弥兵衛が、心配そうに、はたまたあわれむように、駆け寄ってくる。市兵衛から、一部始終の報告を受けた弥兵衛は、あきれたように嘆息した。「手だけをヒト型にすればよかっただろ」

 ぐうの音も出ない。だが、わかってはいても気が動転してて、服を形成するだけの余裕がなかったのだ。ましてや、手だけなんて。そこまで気が回っていたら、こうはなっていない。反論する材料を求めて前のめりになるが、どこからともなくあるじの声が聞こえ、二匹とも条件反射的に姿勢を正した。青菜に塩を振ったかのように垂れていた耳も、市兵衛はピンと立たせる。弥兵衛が耳を澄ませながら、静かに呟いた。

倉稲魂命うかのみたまのみことさまが呼んでる……長く持ち場を離れすぎたみたいだな」

 どちらかが境内けいだいにいなくてはならない決まりだ。痛みが徐々に引いてきたので、きょうの当直である市兵衛が、受持稲荷うけもちいなり神社に向かうため、姿を消す。その市兵衛と入れ違いで、家の北側から彩が歩いてくる。鬼を取り逃がしたことに、まだ不服そうな表情を浮かべていた彩は、不機嫌な様子のまま、弥兵衛に向かって質問を投げかけた。

「あの右脚は?」「あ……。……あれ?」

 人目につけず持ち運ぶため、風呂敷に包んでおくよう指示を出した弥兵衛が、ついさっきの記憶を手繰たぐり寄せてみても、そういえば、それらしき物体を市兵衛は持ってなどいなかった、ということを思い出す。右脚がいったいどこに行ってしまったのか、彩は考えを巡らせた。屋根から市兵衛の転がっていた場所までの直線距離上に、稲穂の部屋へと通ずる、開きっぱなしになったままの窓が存在する。それを見上げ、嫌な予感とともに彩は閃くものがあった。

 彩と弥兵衛は、慌てて風除室のなかへ飛び込んだ。玄関を開けてリビングの横を素どおりした彩は、そのまま二階へと上がっていく。早苗は突然の訪問に、一瞬だけ驚いた様子だったが、入ってきたのが見知った人物だとわかり、すぐにパソコンへと向きなおる。軽く「いらっしゃい」と会釈えしゃくし、タイピング音を響かせて仕事を再開した。弥兵衛が物陰へひそみ、彩だけ二階へ到着すると、稲穂の部屋の扉を開ける。稲穂は自室のなかで尻餅をつき、さっき見たときと同じ体勢のまま、ほとんど動いていないようだった。

 いきなり現れた人物に対し、稲穂は腰を抜かしたまま目を丸くしている。相手が先ほどの鬼ではないことに気づき、幾分いくぶん安堵あんどしたように見えたが、まったく彩たちの心は休まらない。稲穂の隣りに落ちている物体へと目を向ける。そこにあったのは、案の定、見覚えのある風呂敷だ。「一階にりてきて」

 風呂敷を拾い上げ、なにごともなかったかのように、急いで背後へと隠す。稲穂を先に階段から下ろさせ、向かって左側に見えるリビングへ行かせた。パソコン作業を続ける早苗の横で、彩は風呂敷を置き、稲穂のもとへと歩み寄っていく。わずかに風呂敷から、右足の親指が飛び出しているのを見てしまったが、それに気づかせまいと、彩は稲穂の気をらせるように話しかける。

「これから一週間、この部屋にこもって『物忌み』をしてほしいのよ」「も、ものいみ……?」

 目をしばたたく稲穂に対し、彩は神妙にうなずいた。「説明はあと。……そうだね。とりあえず炊飯器から、お米をよそってきて」

 …………。

 ……。

 正午近く、五瀬家から北東うしとらに数キロ離れた山の中。五、六体ほどの鬼たちが取り囲んだ、その中心で、鬼女が息も絶え絶えにいつくばっていた。その鬼女の右足は切断されており、ひどく痛々しそうだと、周囲の鬼たちも顔をしかめる。鬼といえど自然治癒だけで、また足やら手やらが生えてくるわけじゃない。ましてや、この娘は人間の血も多く混ざっている。

「……派手にやられたな」

「お父上……」痛みを必死にこらえていると、食いしばった歯の隙間から、犬歯よりも鋭くとがったキバが見えた。「申し訳、ありません……でも、油断していただけで……今度こそはっ」

「謝るな。こちらの失態だ」懇願しようと口を開きかけた鬼女を遮り、お父上と呼ばれた別の鬼が首を大きく振った。「それで、誰にやられた? 後胤こういんは、おとといに力を出したばかりで、まだ自力では無理なんだろう?」

「はい。女の子とキツネが……」慎重に言葉を選びながら、鬼女は話を続ける。「たぶん後胤の随身ずいじんと、そのまた御付おつきのモノかと……」

「そうか。霊能力者と管狐くだぎつねみたいなものか?」「それは、わかりませんが。関係性でいえば、そんな感じかと……」

朱雀すざく」鬼女が言い終わらないうちに、お父上と呼ばれた鬼は、朱雀と呼んだ鬼のほうへ、頭だけを向ける。「……ひとつ、頼まれてくれるか?」

 まるで意に介さないかのように、朱雀はふたつのサイコロを指ではじいた。弾かれたサイコロは、空中を何回転かしたのち、茂みの多い地面へと、すっぽり収まって着地する。草花をかき分けてそれらを確認してみると、どちらも三の目が上を向いて止まっていた。頼みごとがなにかはくまでもない。朱雀は嬉々として答えた。

「ああ……きょうは気分がいい。サンゾロのちょうだ。なんでも引き受けてやる」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る