(中)

 風除室を飛び越えて北側へと逃げ出した鬼を追い、弥兵衛やへえはショートカットしようと屋根伝いに向かった。

 市兵衛いちべえは彩たちの戦いには参加せず、一匹だけ屋根に残って別の作業を行う。くわえていた鬼の右足をそばへ置き、団子が入っていた風呂敷を広げ、代わりに右足を入れて包み込む。

 結んだコブの部分を咥えて、そっと屋根の上から戦況を観察した。



 彩が鬼の弱点に気づき、弥兵衛へ指示を出したはいいものの、形勢が逆転するまでには至らない。

 そうこうするうちに、鬼は疾風とともに逃げ出す。その際、鬼本体なのか風の一端がぶつかっただけなのか、スピードが速すぎて見えなかったが、市兵衛の身体は吹き飛ばされてしまった。

 屋根を数メートル転がり、背中を強打して勢いづいた身体は、そのまま上空へと放り出される。



「うゎっ!」



 小さな悲鳴を上げると、口を離れた風呂敷が宙を舞う。

 風呂敷のコブがほどけそうになっているが、制御の利かない空中ではどうしようもなかった。

 市兵衛が回転する度に、目の端に捉えた風呂敷の大きさは、どんどんと小さくなっていく。

 悲鳴を聞きつけたのか、ちょうど弥兵衛が通りかかるところだった。



「ふぎゃっ!」



 風除室と稲穂の部屋がある窓の間を落下し、市兵衛は受け身に失敗して地面を転がる。

 樹木へ頭を打ちつけると、回転しながらきらめく無数の星々が見えたような気がした。

 降ってきた風呂敷を見事にキャッチした弥兵衛が、心配そうに、はたまた憐れむように駆け寄ってくる。



「なにしてるんだ、大丈夫か?」



 そう言い終えるよりも前に、どこからともなくあるじの声が聞こえ、二匹とも条件反射的に姿勢を正した。

 青菜に塩を振ったかのように垂れていた耳も、市兵衛はピンと立たせる。弥兵衛が耳を澄ませながら、静かに呟いた。



倉稲魂命うかのみたまのみことさまが呼んでる……長く持ち場を離れすぎたみたいだな」



「それでは。失礼します」



 どちらかが境内けいだいにいなくてはならない決まりだ。走り去っていく市兵衛と入れ違いで、家の北側から彩が歩いてくる。

 鬼を取り逃がしたことに、まだ不服そうな表情をしていた。

 角を曲がって消えていく市兵衛の後ろ姿を横目に見たあと、彩は不機嫌な様子のまま弥兵衛に向かってくる。



 彩が手を伸ばしてきたので、弥兵衛は咥えていた風呂敷を渡した。

 お邪魔します、と言って早苗さなえの横を素通りし、そのまま二階へと上がっていく。

 早苗はパソコンに向き合ったまま、タイピングする手を緩めることなく、いらっしゃいと軽く会釈しただけだった。

 彩が稲穂の部屋に入ると、いまだ稲穂は尻餅を着いて、腰を抜かしているようだった。



「あ、彩っ……!」



 ドアを開けた彩に対して吃驚したようで、稲穂は腰を抜かしたまま仰け反る。

 相手が先ほどの鬼ではないことに気づき、幾分か安堵したように見えた。安心させようと、彩は脅威が去ったことを告げる。

「もう大丈夫だから。一階に下りてきて」



 階段を下りていくと、向かって左側に見えたリビングには、いつの間に祭壇のような白い棚が、忽然と姿を現していた。

 パソコン作業を続ける早苗の横で、彩はその祭壇に風呂敷を置き、稲穂の元へつかつかと歩み寄ってくる。

 結び目が解けた風呂敷から、わずかに右足の親指が飛び出しているのが見えた。

 それに気づいた彩は、稲穂の気を逸らせようと話しかける。



「これから一週間、この部屋に籠って物忌ものいみをしてほしいの」

「も、ものいみ……?」



 目を瞬く稲穂に対して、彩が神妙に頷いた。

「説明はあと。……そうだね。とりあえず炊飯器から、お米をよそってきて」



 …………。

 ……。

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アマテラスの力を継ぐ者 モンキー書房 @monkey_shoboh

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