章第二「茨木童子」
(一)脾肉の嘆と云へり
「稲穂ちゃん! 稲穂ちゃん!」
自分の両手両足の爪先も視認できないほどに、
日の出とともに目を覚ました彩は、身体の節々に痛みを感じつつ、ボコボコ鳴るトタンの上で寝返りをうつ。宿儺と対峙した日から、彩は体育着姿のまま、五瀬家の屋根の上にのぼっていた。寝ぼけ
隣りで
そうだ、と決意を改める。ここ数年が平和すぎて、単に油断していただけだ。
「そろそろ交代の時間だ、
「ありがとう。いただきます……」彩は自分の腹部をさすった。「ちょうどよかった。あまりにも
立ち去り際、市兵衛はぎくりとして
「きのうから、なにも食べてないんじゃないですか」「うん、まあ……ときどき、肉体を持っていることを忘れちゃうんだよね」「まだですか? 少なくとも、いまの身体とは十年くらいのつき合いじゃないですか」
残ったほうのキツネ・
「久々に戦ってみて思ったけれど、力を思うように使いこなせなかったのよね。肉体があると気配を消せるのはいいけど、神本来の力まで抑え込められてしまうのが難点」宿儺との死闘を思い出し、彩は深いため息を吐いた。ひとこと、ぼそりと呟く。「……まさに皮肉」
「ご苦労さまでーす」帰ったと思っていた市兵衛が、どうやら聞き耳を立てていたようで、ひょこひょこと彩の近くへ戻ってきた。さらに市兵衛は、嫌みったらしく口角を上げる。「肉体があると、体型も気になりますもんね。
仕返しと言わんばかりに、ニタニタと薄ら笑いを浮かべ、市兵衛は彩の
市兵衛にツッコミを入れたあと、彩は手を振って「さっさと早く帰れ」と合図した。お茶を
秋田県では五月中旬頃に田植えの最盛期を迎え、この時期になれば青々とした田んぼを至るところで目にする。まだまだ植えられたばかりで小さな苗が、暑さを振り払うかのように吹く風でなびいていた。直射日光を浴びすぎたせいで、日焼けこそしないものの、わずかに身長が伸びたような気がする。
空が映り込んだ
そんなときだった。五瀬家の周囲だけ
「なにをしている」そんな天照大神の声が聞こえてくるような気がした。「急ぐのだ」
彩は屋根から飛び降りて、
「稲穂!」
窓のすぐ下の壁に足裏をつけ、重力に抗っていられるほどの短いあいだに、素早く眼前の陰へ刃先を突き立てた。さらに小刀をその身体へ食い込ませると、そのままの勢いで横にスライドさせる。いとも簡単にそれは斬れ、欠損した身体の一部は着物の破片とともに、
弥兵衛が尻尾を振るタイミングに合わせ、彩は思いっきり腕を伸ばす。窓枠に手をかけると、ぽっかりと開いた隙間を縫って、前転しながら稲穂の部屋へと入った。薄暗い部屋のなかでは、尻餅をついた稲穂のまわりに、黒い手のような物体がうねうねとしている。どうやら、それらが手足にまとわりつき、稲穂の自由を奪っているようで、なんだか少しだけいかがわしく感じた。
「汚い手で稲穂に触んなァァァ! この鬼畜どもがァァァ!」
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