章第二「茨木童子」
(上)
運動会の二日後、五月の最終月曜日。
きょうは土曜日の振替休日で登校はない。
その日、太陽がかなり昇った時間帯になっても、
カーテンの隙間から微かに差し込んだ陽光は、ベッドの上を通って、稲穂の顔面に一筋の輝きを落とす。
寝起き眼には刺激が強すぎて目を細め、この眩しさを遮るように右の拳を眉間に当てた。
左手を伸ばして、僅かに開いていたカーテンを閉めなおす。
そろそろ起きようと、腹筋に力を込めた。一昨日も昨日も、いつ寝たのか覚えていない。
それほど疲れていたわけではないし、むしろ寝すぎて、身体の中から
いまのほうが身体を動かすのがつらく、なんとか床に足をつけてベットの端へ腰かけた。
寝汗をかいていて気持ち悪かったので、パジャマのボタンを外しながらクローゼットへと向かう。
熱帯夜だからではないはずだ。稲穂は額に手を当て、夜のことを思い出す。
内容は覚えていないが、悪夢を見ていたような気がして、きっとそれが原因だろうと思った。
額の次は腹部に手を当てた。ぐぅぅぅ。腹の虫の納まりが悪く、急激な空腹感を覚える。
部屋の壁かけ時計に目をやると、どうやら時刻は午前九時を回っているようだった。
着替えたあと、ベッド脇で充電していたスマホをケーブルから抜いて、検索窓にフリック入力していく。あ、ま、て、ら、す、の五文字を入れたところでカタカナに変換した。
いちばん上のページをタップして開く。
「
稲穂は画面をスクロールさせる。小難しそうな文章が続き、読む気が失せてすっ飛ばしていると、四角形が続いている場所に出た。
どうやら系図のようで、それを最後まで辿って見てみたが、どこにも「
それどころか、五瀬なんて苗字、どこにも出てこない。わかっていたことではあるが、少しだけ期待もしていただけに残念だ。
でも、天照大神の子孫など
可愛いキャラクターに彩られた机へ移動し、稲穂は椅子を引いて腰かける。いつも使っている勉強机で、窓に向かって右側に置かれていた。
稲穂の部屋が東に向いているせいもあり、朝方に直射日光が入り込むのを嫌って、普段はカーテンを閉め切っている。
ランドセルから筆記用具とノートを取り出し、宿題をしようと机の上へ並べていった。
学校の教室と同様に、左側から差し込んだ日光が天然の照明となるような構造だが、カーテンは閉め切ったままなので稲穂はデスクライトを
仮に天照大神の子孫だとして、太陽に面と向かうことが苦手ってある? ないない。
普通の人間であると自己解決し、稲穂は自分に言い聞かせるように納得した。
鉛筆の芯がノートに触れた瞬間、風でも吹いたかのようにページがパラパラと、音を立ててめくれていく。
いや、風でも吹いているようではなく、
舞い込んできた風が稲穂の髪を
いつの間にか、鍵もかけていたはずの窓が開かれ、揺れているカーテンの向こう側に、なんらかのシルエットが浮かび上がっているのが見えた。
なにが起こっているのか、事態を呑み込むのに時間がかかる。
「お前か。
そのシルエットが発生源であろう声が聞こえた。
稲穂の部屋は二階にあり、ベランダはついていない。だが、その人影と思しきシルエットは、明らかに窓の桟の上へ立っていた。
カーテンがカラカラと動き、その人影が顔を覗かせるが、逆光になっていてよく見えない。
日光を遮って部屋の中へ落とした影の中から、小さな物体がもぞもぞと湧き上がってくる。
その小さな物体はヒト型に変化し、稲穂の両手足に纏わりついてきた。
「稲穂!」
恐怖で声も出ずにたじろいでいると、突然、自分の名前を呼ぶ声が耳に届いた。
聞こえたのとほぼ同時に目の前の人陰から一部分が欠落し、窓の大きさに対して五分の一ほどの陽光が部屋に差し込む。
語気荒く部屋の中へ転がり込んできたのは、彩の姿だった。
「汚い手で稲穂に触んなァァァ! この鬼畜どもがァァァ!」
…………。
……。
日の出とともに、彩は目を覚ます。体育着姿のまま、
彩の寝ぼけ眼に飛び込んできたのは昇ったばかりの朝日と、それを浴びてまるで後光が差したかのように輝く
秋の
隣りで神使の狐が眠りこけていた。彩は思わず二度寝しかけたが、炎天下のせいで堪らず目を覚ます。
太陽が地上から顔を出して間もなく、まだ気温もそこまで高くはないはずだというのに、いつまで寝ているのだ、と天照大神から叩き起されてしまったようだった。
いや、忘れようとしても無駄な努力に終わるような記憶である。そうだ、別に忘れていたわけではない。
ここ数年は平和すぎて、単に油断していただけだ。もう同じ
彩はゴロっと身体を横向きにし、尾根にかかる陽光の輝きを見つめた。彩は
誰かが近づいてくる音が微かに聞こえ、彩は飛び起きて警戒を強めるように周囲を見回したが、遠くに見つけたそれは見覚えのある狐の姿だった。
屋根の上へ静かに降り立ち、その狐は寝そべったもう一匹の狐へ告げる。
「そろそろ交代の時間だ、
虚ろな目を前足で擦りつつ、市兵衛と呼ばれた狐は生返事した。
そして、あとから来た狐は彩のほうへ、首から提げていた風呂敷を差し出す。
それを受け取ると、彩は自分の膝の上で広げる。風呂敷の中に入っていたのは、空腹を満たすには十分なほどの団子だった。
それをもの欲しそうに見つめる市兵衛の口元へ、お駄賃代わりに一つ放り込む。
「ありがとう。いただきます……」彩は自分の腹部をさすった。「ちょうどよかった。あまりにも美味しそうだったから、危うく市兵衛の尻尾を食べそうになっていたところ」
立ち去り際、市兵衛はぎくりとして軒先から落ちそうになった。冗談よ、冗談。
「昨日から、なにも食べてないんじゃないですか」
「うん、まあ……ときどき、肉体を持っていることを忘れちゃうんだよね」
「まだですか? 少なくとも、いまの身体とは十二年の付き合いじゃないですか」
残ったほうの狐、
まあ、そうなんだけど。と前置きして、もう一つ団子にかぶりつく。
「久々に戦ってみて思ったけれど、力を思うように使いこなせなかったんだよね。肉体があると気配を消せるのはいいけど、神本来の力まで抑え込められてしまうのが難点」
宿儺との死闘を思い出し、彩は深い溜め息を吐いた。ひとこと、ぼそりと呟く。「……まさに皮肉」
「ご苦労様でーす」
帰ったと思っていた市兵衛が、どうやら聞き耳を立てていたようで、ひょこひょこと彩の近くへ戻ってきた。それから、いやったらしく口角を上げる。
「肉体があると、体型も気になりますもんね。
仕返しと言わんばかりに、ニタニタと薄ら笑いを浮かべ、市兵衛は彩の
通常よりも三倍速くらいで、尻尾を左右に揺らした。
主人に対して横柄な態度を取る前足を振り払い、彩は立ち上がると自分の
「ふ、太ってないわ! それこそ、なんの皮肉よ!」
市兵衛にツッコミを入れたあと、彩は手を振って「さっさと早く帰れ」と合図した。お茶を啜って、彩は眼下の水田を見渡した。
秋田県では五月中旬頃に田植えの最盛期を迎え、この時期になると、青々とした田んぼを至るところで目にすることができる。
まだまだ植えられたばかりで小さな苗が、暑さを振り払うかのように吹く風になびいていた。
直射日光を浴びすぎたせいで、日焼けこそしないものの、身長が
空が映った
彩は思いっきり息を吸い込み、腕をぐっと伸ばして身体をほぐす。
稲穂の香りに交じって天照大神の気配が鼻腔に届き、彩の額から零れ落ちた汗を涼風が
嗅ぎ馴染んだ水田の香りに、彩は落ち着きを取り戻していた。
そんなときだった。五瀬家の周囲だけ
頭上に、陽光を遮る黒い陰があることに気がつく。
断然、雲よりも近い場所にあった。その黒い陰は下へ落ちていき、再び陽光が彩のもとに降り注いだ。
いつもより暑く、すぐ近くまで太陽が迫ってきているかのような錯覚に陥る。
「なにをしている」そんな天照大神の声が聞こえてくるような気がした。「急ぐのだ」
彩は屋根から飛び降りて、
そこから一本、植えられたばかりの稲を摘み取った。
いただきます。そう告げながら田んぼに一礼し、手に持った稲をひと振りさせると、それはあっという間に小刀へと変化した。
田んぼのある南側から、東のほうへと回り込む。
二階にある稲穂の部屋を見上げ、彩は目標を定めると、思いっきり地面を蹴ってジャンプした。
「稲穂!」
窓のすぐ下の壁に足裏をつけ、重力に抗っていられるほどの素早さで、眼前の陰へ刃先を突き立てた。
さらに小刀をその身体へ食い込ませると、そのままの勢いで横にスライドさせる。
いとも簡単にそれは斬れ、欠損した身体の一部は着物の破片とともに、
それを市兵衛が口でキャッチするのを横目で確認しながら、彩は飛んできた弥兵衛の尻尾に身体を沈み込ませた。
弥兵衛が尻尾を振るタイミングに合わせ、彩は思いっきり腕を伸ばす。
窓枠に手をかけると、ぽっかりと開いた隙間を縫って、前転しながら稲穂の部屋へと入った。
薄暗い部屋の中では、尻餅をついた稲穂の周りに、黒い手のような物体がうねうねしている。
どうやら、それらが手足に
「汚い手で稲穂に触んなァァァ! この鬼畜どもがァァァ!」
そんな妄想を振り払うように叫び声を上げ、彩はこの気味の悪い物体を斬り刻んでいく。
しかし、やたらめったらと小刀を振り回すまでもなく、部屋の中へ陽光が差し込んだのと同時に、この物体の姿は消え失せていった。
陽光の出所を探って窓へ目を向けると、あの陰の姿はなくなり外のほうが騒々しく聞こえる。
窓に駆け寄って下を覗き込むと、一メートル以上もありそうなほど大きい布が、ひらひらとしているのが見えた。
「これは渡しません!」
その布の周りで、二匹の狐が走り回っている。
市兵衛が右足を
彩は小刀を握り直し、眼下の布に向かって部屋から飛び降りる。
重力を利用して勢いよく斬りつけたあと、すぐさま相手からの距離を取った。
布からは、僅かに血が滲む。振り返った相手の顔を見て、彩は一瞬
切れ長の眼を縁取る長い
被衣をそっと押さえている、細く白い腕との対比が綺麗すぎて、彩は思わず息を呑む。
一言でいえば、容姿端麗な女性が、そこにはいた。
しかし、その人物は間違いなく鬼である。
しなやかな勾玉のようだが、それでいて先が鋭く尖った角が一本、額から五センチほど伸びていた。
その鬼が被衣を翻しながら飛び上がったのを見て、彩は小刀を構え直すと相手の攻撃に備える。
しかし一本脚で器用に跳躍しながら、鬼は風除室の上へと飛び移り、五瀬家の北側へと逃走していった。
「……あっ!」
予想外の行動に彩は対応できず、
逃がすまいと追いかけると、先に弥兵衛が回り込んでいて、再び足止めを食らわせていた。
脚に絡みついた触手によって市兵衛は引きずられ、吐き出された狐松明は虚しくも明後日のほうへ向かう。
いきなり足元から生えてきた触手によってバランスを崩し、彩も引きずられて体育着は泥まみれになってしまった。
狐松明の火力でも断ち切ることができる程度の触手だが、なにせ数が多すぎて攻撃が間に合わない。
てっきり、この触手は鬼自身の影からしか生成できないと思っていた。
しかし建物の影でもいいらしく、日影になった面積が多い北側では、広範囲に
絡みつく触手を斬って払い除け続けるが、次から次へと湧いてくるのには、どうしようもなく
心なしか、斬られる前よりも増量しているような気がしてくる。これは思いのほか厄介な存在であり、鬼に近づくことすら叶わなかった。
絡まる美少女を見るぶんには楽しいが、自分がされるとなると話は別だ。
……ん? 待てよ? ふと彩は、稲穂の部屋での出来事を想起する。
この鬼がいなくなったあと、触手は部屋の中から消失していた。
そして、わざわざ遠い北側へ逃げ込んだのは何故だ。稲穂の部屋からは南側のほうが近かったはずだが、風除室を飛び越えて北側へ移動した意味は?
被衣を羽織っていたのも、もしかしたら、こういう理由のためだったのかもしれない。
「鬼の
彩は触手を斬って脚を抜くと、
狐松明を放った瞬間、溶けた触手から脚をするりと抜き、弥兵衛はなんとか脱出に成功したようだ。
思った通り、その触手は太陽光へ当たった途端に、煙を出して霧散する。
しかし、相手が攻撃してこられないのと同様に、こちらから攻撃を仕かけるのも難しくなった。
なんとかして近づくほかあるまい。ぴんと張り詰めた空気の中、彩は少しずつにじり寄っていく。
遠距離から弥兵衛が狐松明を連発すると、どんどん削られていく触手の様子に鬼は
相手の出方を
青白い光の中から見える色白の顔面に狙いを定め、彩は体勢を低くして突進する構えを見せた。
すると、こちらの殺気に気づいたのか、鬼は黒い触手を一斉に地面から湧き立たせる。
それと同時に疾風が巻き起こり、彩と弥兵衛は吹き飛ばされないように、体勢を整えるので必死だった。
「しまっ……!」彩は、盾にした右腕の隙間から
この無防備な状態で、もし攻撃されてしまったら、ひとたまりもないだろう。ところが、風が止んでもなお鬼の姿は見当たらず、どうやら疾風とともに消え去ったようだった。
彩と弥兵衛は、一瞬のできごとに呆然と立ち尽くす。
この勢いに巻き込まれたのか、周囲には
…………。
……。
正午近く。
五瀬家から北東に数キロ離れた山の中。小鬼も含めて五、六体ほどいる鬼たちに囲まれた、その中心に、息も絶え絶えに苦しそうな鬼女の姿があった。
その鬼女の右足は切断されており、ひどく痛々しそうだと、周囲の鬼たちも顔を
鬼と言えど自然治癒だけで、また足やら手やらが生えてくるわけじゃない。ましてや、この娘は人間の血も多く混ざっている。
「……派手にやられたな」
「お父上……」
痛みを必死に堪えていると、食いしばった歯の隙間から、犬歯よりも鋭く尖った牙が見えた。
「申し訳、ありません……でも、油断していただけで……今度こそはっ」
「謝るな。こちらの失態だ」
懇願しようと口を開きかけた鬼女を遮り、お父上と呼ばれた別の鬼が首を大きく振った。
「それで、誰にやられた? 後胤は
「はい……女の子と狐が……」慎重に言葉を選びながら、鬼女は話を続ける。「たぶん後胤の
「そうか。霊能力者と
「それは、わかりませんが。関係性でいえば、そんな感じかと……」
「
まるで意に介さないかのように、朱雀はふたつのサイコロを指で
弾かれたサイコロは空中を何回転かし、茂みの多い地面へすっぽりと収まって着地する。
草花を掻き分けてそれらを確認してみると、どちらも三の目が上を向いて止まっていた。
頼みごとがなにかは訊くまでもない。朱雀は嬉々として答えた。
「ああ……きょうは気分がいい。サンゾロの
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます