今回の古典:『大鏡』「肝だめし」

(抜粋)

 さるべき人は、とうより御心魂こころだましひのたけく、御まもりもこはきなめりとおぼえはべるは。花山院くゎさんゐんの御時に、五月しもやみに、五月雨さみだれも過ぎて、いとおどろおどろしくかきたれ雨の降る夜、みかど、さうざうしとやおぼしけむ、殿上てんじやうでさせおはしまして遊びおはしましけるに、人々、物語申しなどしたまうて、昔恐ろしかりけることどもなどに申しなりたまへるに、「今宵こよひこそいとむつかしげなる夜なめれ。かく人がちなるだに、気色けしきおぼゆ。まして、もの離れたる所などいかならむ。さあらむ所に、一人ひとりなむや。」とおほせられけるに、「えまからじ」とのみ申したまひけるを、入道殿は、「いづくなりとも、まかりなむ」と申したまひければ、さるところおはします帝にて、 「いときようあることなり。さらば行け。道隆みちたか豊楽院ぶらくゐん道兼みちかね仁寿殿じじゅうでん塗籠ぬりごめ、道長は大極殿だいこくでんへ行け」と仰せられければ、よその君たちは、便びんなきことをもそうしてけるかなと思ふ。また、うけたまはらせたまへる殿とのばらは、御気色変はりて、やくなしと思したるに、入道殿は、つゆさる御気色もなくて、「わたくし従者ずさをばしさぶらはじ。このぢん吉上きちじやうまれ、滝口たきぐちまれ、一人を、『昭慶門せうけいもんまで送れ』と仰せ言賜ごとたべ。それよりうちには一人入りはべらむ」と申したまへば、「そうなきこと」と仰せらるるに、「げに」とて、御手箱てばこに置かせたまへる小刀申して立ちたまひぬ。いま二所ふたところも、にがむ苦むおのおのおはさうじぬ。



【現代語訳】

 栄華を掌中にするほどの方は、お若いころから、ご胆力が強く、神仏のご加護も強いものらしいと思われることですよ。花山院かざんいんのご在位のとき、五月下旬の闇夜に、五月雨といっても程度がひどく、たいそう気味悪くはげしく雨の降る夜のこと、帝は手持ち無沙汰ぶさたで寂しくお思いになられたのでしょうか、殿上てんじょうにお出ましになられ、殿上人たちと管絃の遊びなどしていらっしゃって、人々がお話し申しあげておられるうちに、いつしか昔のいろいろと恐ろしかったことなぞに話が移っていきました。そのとき、帝が「今夜はひどく気味の悪い感じのする晩だな。こんなに人が大勢いてさえ、不気味な感じがする。まして、遠く離れたひとけのないところなどは、どんなものだろう。そんなところへひとりで行けるだろうか」とおっしゃいました。そのとき「とても参れますまい」と皆が申しあげなさったのに、入道殿(道長)は「どこへなりとも参りましょう」と申されましたから、そうしたことを面白がられるご性格のおありの帝ですので「まことに面白い。それならば行け。道隆みちたか豊楽院ぶらくいん道兼みちかね仁寿殿じじゅうでん塗籠ぬりごめ、道長は大極殿だいこくでんへ行け」とおおせられたので、関わりのない君達きんだちは「道長殿はつまらぬことをも奏上したことよ」と思っています。また一方、勅命をうけたまわられた殿たちおふたりは、お顔色が変わって「困ったことだ」と思っていらっしゃるのに、入道殿は、とんとそのようなご様子もなく「私個人の従者は連れて行きますまい。この近衛このえじん吉上きちじょうなり、滝口たきぐちの武士なり、誰かひとりに、『昭慶門しょうけいもんまで送れ』という勅命をお下し願います。その昭慶門から内へは、私ひとりで入りましょう」と申しあげられました。すると帝は「それでは証拠がないことだ」とおっしゃいましたので「そう仰せられるのもごもっとも」と、帝が御手箱に入れておおきになった小刀をお借りして、お出かけになりました。ほかのおふた方も、苦々にがにがしいお顔で、それぞれお出かけになりました。



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 平安時代後期に成立したとみられる歴史物語『大鏡おおかがみ』は、「今鏡いまかがみ」「水鏡みずかがみ」「増鏡ますかがみ」と合わせ、四鏡のひとつに数えられている(成立した順番を「大今水増だいこんみずまし(大鏡→今鏡→水鏡→増鏡)」という語呂合わせで覚えるのがオススメ! ちなみに、作中で扱っている時代が古い順は「水大今増みずだいこんまし(水鏡→大鏡→今鏡→増鏡)」と覚えよう!)。作者は未詳だが、大江匡房おおえのまさふさ藤原能信ふじわらのよしのぶなどの説がある。三巻本・六巻本・八巻本ががあり、内容は、五十五代・文徳もんとく天皇の嘉祥かしょう三(八五〇)年から六十八代・後一条ごいちじょう天皇の万寿まんじゅ二(一〇二五)年までのことが記されている。

 あくまでも物語であり、語り手は架空の人物。ふたりのおきなが主な語り手で、貞観じょうがん十八(八七六)年に生まれた一九〇歳の大宅世継おおやけのよつぎ(世次)と、その相手をつとめる脇役が一八〇歳の夏山繁樹なつやましげき(重木)。雲林院うりんいんの菩提講にて、若侍の相槌に興がのり、見聞きしたことを話した内容が『大鏡』の物語であるから、おおむね『大鏡』全編の語り手が世次といってよい。聴衆のなかのひとりで、最も熱心な聞き手であるさぶらいも、語り手となる場面がある。それとは別に登場するのが、万寿二年五月、雲林院の菩提講での世次・重木・侍たちの世語りにゆきあい、それを記録した人物で『大鏡』の筆者だ。

 書名は作者その人の命名ではなく、のちの人によってつけられ、その呼称例を概観すると、三種類に大別できる。語り手の名による呼称(世継が物語、世継の翁の物語、しげき世継の物語)や大鏡を含んだ呼称(大鏡の巻、广訶大円鏡)、そして、それら両方の要素をあわせ持った呼称(世継大鏡、世継のかゞみの物語)で呼ばれていた。「大鏡」の呼称は鎌倉時代初期には成立しているが、同じ建久年間でも、天理本に「大鏡」、『六百番歌合』に「世継の翁が物語」、また『袋草紙』に「世継物語」とあって、同一書名で呼ばれていない。「大鏡」の名は作品中一度も見えないが、「鏡」の語は、帝紀を語り終えた箇所に見える。

 世継の明確な話を「あかく磨ける鏡」と称賛し、繁樹が「あきらけき鏡にあへば過ぎにしも今ゆく末のことも見えけり(明るく澄みきった鏡に向かうように、歴史に明るいあなたのお話をうかがいますと、過ぎ去った昔のことも、これからのちのことも、はっきり映って見えることです……歴史の真実が明らかに見えることだ)」という歌を贈った。

 鏡から「大鏡」の名称に変じた過程については、四鏡のひとつで『小鏡こかがみ』や『続世継しょくよつぎ』とも呼ばれる『今鏡』から推測されてきた。歴史の語り手「あやめ」の名について、その女主人である紫式部むらさきしきぶが「いにしへをかがみ、今をかがみるなどといふことにてあるに、古もあまりなり。今鏡とや言はまし。また、をさをさしげなるほどよりも、年も積らず、みめもささやかなるに、小鏡とやつけまし」と言ったところから、『大鏡』の書名を推定するものである。すでに「古鏡」「大鏡」という名が生じていたとする従来の説に対して、森氏は「今鏡」「小鏡」が新しく出現したから、それと呼び分けるために初めて成立したと提言した。

 本章にある「(十一)掻き垂れ降る雨の夜」のタイトルは、上記にあるとおり、道長たちが肝だめしをする場面からの引用である。このあとに三人は、帝の勅命により道順や出口を別々に決めて、うしの刻(午前二時前後)、出かけて行くこととなる。道中に道隆も道兼も、恐怖のあまり「身のさぶらはばこそ、仰せ言もうけたまはらめ(命があってこそ、ご奉公も勤まるというものだ)」と言い訳し、引き返すことになってしまうが、道長は長いこと姿を見せず、皆どうしたものかと思っていると、なんでもないというような様子で帰ってくる。

 そして道長は帝に、小刀と、削り取ったものをそろえて差し出し、「ただにて帰りまゐりてはべらむは、そうさぶらふまじきにより、高御座たかみくら南面みなみおもての柱のもとを削りてさぶらふなり(なにも持たずに帰ってまいりましては、証拠がございませんから、高御座の南側の、大極殿の柱の下のところを削り取ってまいったのでございます)」と言った。しかし帝は疑い、翌朝、蔵人くろうどつかわせ、削りくずをあてがわせたところ、寸分たがわなかったという。

 最後に、いまもって大極殿の削り痕は鮮やかに残っていると、このエピソードは締めくくっている。これが実際あった話とするなら、寛和かんな元(九八五)年の五月のこと。それから万寿二年まで四十年ほど経つが、『大鏡』執筆のころは大極殿焼亡後のことで、削り痕は幻視するほかない。



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 参考文献:

 ☆小学館『新編 日本古典文学全集34 大鏡』校注・訳者:橘健二たちばなけんじ加藤静子かとうしずこ(一九九六年)

 ☆小学館『大辞泉だいじせん』監修:松村明まつむらあきら(一九九五年)

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