(十二)天獄寺に巣食ふ鬼

 肝試しが終盤に差しかかる。ふたりが山門に戻ってきて、最後に優二たちのペアが出発した。全ペアが十分以内に木箱を持ち帰っている。そう敷地は広くないし、案外、早く見つけられそうだ。本堂の前までくるあいだ、木箱らしいものは見つけられていない。電池がなくなってきたのか、懐中電灯は明滅を繰り返していた。しかも、だんだんと雨脚が強まり、本堂の扉に張り出したひさしの下で、優二たちは、つかの間の雨宿りをする。本堂のほうを照らしていると、なにやら外壁を指差しながら、瑞葉が「なんかある……文字?」と小首をかしげた。



「ニ……ベシ……」

 懐中電灯のせいで目がちかちかするなか、そこに書かれている文字を音読する。ところどころ文字が潰れてしまって読みづらい。それよりも優二は、文字の内容より、ここに文字が書き込まれていることに問題を感じた。こんなところに落書きするなんて、罰当たりな連中もいたものだ。それはそうと、早く家に帰りたかった優二は、先を急ごうとする。他人の不敬になげいている場合ではない。



 ものの数秒で解読を諦め、顔を上げたとき、瑞葉の姿が消えていることに気がついた。そこまで文字に気を取られていたはずもないが、いつの間に? 見渡せる範囲に人影はなく、障害物もほとんどない。隠れるスペースがあるとすれば、目の前の本堂だけだった。まさか、とは思いつつ把手とってを引くと、鍵はかかっておらず、すんなりと扉が開かれる。ここも探索の範囲内らしく、優二は、意を決して本堂のなかへと進んでいく。



 懐中電灯は相も変わらず、不規則に光り続けている。簀子すのこのところで靴を脱ぎ、一段高くなっている床へ上がり込む。周辺には一足も置かれていないが、土足でよかったのだろうか。床板に足を載せた瞬間、床板がきしむ。本堂のなかは、外よりも一層、闇が濃かった。伽藍堂がらんどうのような空間には、人っ子ひとりの気配も感じない。そのせいで、いきなり大きな音が聞こえたときは、口から心臓が飛び出してきそうなほど驚いた。



 誰……? まさか、こんな仕掛けを用意していたなんて。思いきり油断していた、恥ずっ。



 ぐちゃぐちゃ。気持ちの悪い音がするほうへ歩みを進めた。ぐちゃぐちゃ。暗くて確認はできないが、前方に誰かがいるような気がする。ぐちゃぐ……



 ぴたりと、音がんだ。そして、なにか柔らかいものに当たったような気がして、優二は足を止めた。ごとっ。なにかが床へ転がるような音がして、懐中電灯を、音がしたほうへと向ける。その明滅のなかに浮かんできたのは、白目をいた瑞葉の頭部だった。首から下のない、頭部だけの姿。優二は思わず「うわぁぁぁあ」と、情けない叫びを上げた。



 び、びびってない。よくできたレプリカだ。



 もう一度、大きな音がしたとき、優二は床へ尻餅をついてしまった。手から離れた懐中電灯が転がって、前方のある一点だけを照らしている。その先にあったのは、四方に糸を伸ばしたまゆのような白い球体。その隣りには、よだれとも血とも区別できない液体を垂らしながら、必死の形相で肉塊へ喰らいつく人間の姿もある。



「だ、誰……? 先輩?」



 その人物と、目が合った。血走ったまなこと、荒い息づかい。肉塊を口元からこぼしながら、そのニンゲンは、だんだんと近づいてくる。大きな手を、優二のほうへ伸ばしてきて、られる、と思って目を伏せ、身構えた瞬間。下を向いている視界の端に、見覚えのある靴が見えた。優二がおそる恐る顔を上げると、フォーマルなパンツスーツを穿いた細い脚が目に映る。さらに見上げれば、短くまとめられた髪の毛。優二の目の前にいたのは、どうやら浅良部日向のようだった。



「報告ん上がってた羅刹らせつって、あんたんこと?」



 岩手の方言ではない、どことなく西のほうを思わせるなまりが聞こえる。それは明らかに日向の口からのようだ。優二は日向に対して、あまり自分の意見は言わない、おとなしい印象を持っていたが、力強く発せられた日向の声は、外から響いてくる豪雨にも、負けないものだった。優二は腰が抜けて、動くことはできない。優二の視界の大部分は日向の身体に塞がれ、いま、どういう状況なのかが判然としなかった。



「オマエ、イツセノコ、カ?」

「……イツセ?」日向の声が、雨音に交じって鼓膜を震わせる。「そりゃあ知らん。ミケイリノなら知っちょるけんど」

「ドチラデモ、ヨイ。ヒノカミノミコ、ニワ、カワラヌ」

「ミコ? 御子っていってん、何百世代も前ん話やっちゃけど?」



 どういう内容の会話がわされているのかも、優二には想像すらつかなかった。さらに、突然の浮遊感を覚えた優二は、手足をバタバタさせ、抵抗するということにも考えが及ばない。思いがけないことすぎて、身体を硬直させたまま、唖然としているうちに、気がつけば優二は遥か遠くへと飛ばされていた。日向のような非力そうな文学オカルト少女から首根っこをつかまれ、身体が浮かんでいるなどと、自分の理解の範疇を超えている。目の前ぎりぎりのところを、ニンゲンの手がとおりすぎていく。彼女は俺を助けようとしてくれたのかな、と優二は思う。空中を移動している時間が、あまりにも長く感じ、心のなかには雑多な思いが駆け巡っていく。……これが走馬灯というヤツだろうか。十九年の記憶がアルバムのように次々と流れていく。



 地面へ着地した優二は、しばらく悶絶のあまり動けなかった。間一髪で下敷きにならずに済んだのはありがたいが、それと引き換えに全身を打撲してしまう。遠くから「ごめーん! 優しゅうしちょる余裕がのうて!」と、さほど悪びれた様子もない、日向の溌剌はつらつとした声が聞こえる。ドア近くまで吹き飛ばされたらしく、強風に叩きつけられているドアの音を頼りに、優二はいつくばり、片目を薄く開けて前進した。目に砂ぼこりが入り、痛みを感じる。暗いだけに、これ以上、視界を奪われるのはけたい。



「ソーセイジワ、ニゲタヨーダナ」

「ん? ソーセージ・ ・ ・ ・ ・? かてもん・ ・ ・ ・の話しとるんか?」



 続けて日向は「あんた、なに食べるん? 人間じゃのうて?」と嘲笑する。その直後、トーンの落ち着いた声で「もしかして、仲間がいたの?」と問いかけていた。我関せずといった具合で、優二は四つん這いのまま、塵埃を一身に受けて床を進む。



 背後から、いまにも抜け落ちそうな床の上を走り回る音や、柱が粉砕されるけたたましい音などが、ほとんど失った視力の代わりに鋭敏となった耳へ届く。もう少しでドアに手が触れそうだったが、突然、優二の背中を激痛が襲った。今度は近くから、これまた悪びれた様子もなく「ごめんやじ」と、軽く謝る日向の声を聞く。



 いったい日向は、どこから飛んできたのだろう。優二の腰から臀部を退しりぞけ、ドアを開けるや否や「はよう逃げー」と催促する日向に従って、優二は外へと駆け出していった。槍でも降っているんじゃないかと思うほどの、一時間に三十ミリ未満の雨量が全身を鋭く刺す。本堂のなかで、なにが行われているのか自分の知るところではないし、仮に知ったところで理解の及ぶものとも思えない。ただただ優二は、逃げきることだけに集中した。



 山門まで戻ってくると、息せき切らした優二に駆け寄り、聡美がタオルを差し出し、優二の後ろを覗いてたずねる。「丹治たじいさんは? あと、浅良部あさらべさんの姿も見えないんだけど、見てない?」



 瑞葉の首が脳裏をよぎった。本堂のほうから、なにかが爆発するような轟音が響き渡る。

「……なに、いまの音?」「に、逃げましょうっ!」「ダメよ、丹治さんと浅良部さんを待たなきゃ」「ふ、ふたりはもう……!」

 目の前が、暗褐色に染まった。なにが起きたのか、瞬時には判断できない。少し首を後方へ傾ければ、上空に飛んだ聡美と目が合う。そこで、優二の記憶は途切れていた。

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